白水社の文庫クセジュ、que sais-je?(私は何を知っているか?)。ずいぶんと久しぶりにお目にかかった。
デカルトとかパスカルとかボードレールとかに関するものを何冊か読んだような記憶があるのだが、家の本棚に見当たらない。なんだろう、当時、大学の図書館あたりで借りて読んだのだろうか? それは、さておき。
訳者あとがきによれば、著者は、経済学・哲学が専門で、南北問題やグローバル化に関する著作を多数執筆しており、フランスにおける脱成長運動の指導的存在として世界的に認知されている、とのこと。1940年生まれということは、80歳を超えておられることになる。
古典に属するものを除けば、最近は、海外の著者のものを読むことはほとんどない。久しぶりである。(オープンダイアローグ関係はあったな。)海外の動向への目配りは、基本的に講壇の専門家にお任せして、そこから必要な情報を得る、というふうでよい。が、今回は、ちょっと食指が動いた。
訳者の中野氏は、立教大学HPの研究者紹介によれば、早稲田大学政経学部から、イギリスのエセックス大学で修士、サセックス大学で博士課程を修了され、立教大学の特任准教授。早稲田、上智、ICU等で、研究員や講師など歴任されているようだ。この書物の訳者略歴には、専門は、社会哲学、開発学、平和研究とのこと。年齢は、40歳代半ばのようである。
【脱成長とは】
さて、序章には以下のように記される。
「脱成長という語は…経済成長の対義語で…ない。…その目的は、我々に…限度の感覚を再発見させることにある。…脱成長は景気後退やマイナス成長を意図していない…。縮小させるために縮小することは、成長させるために成長するのと同じように馬鹿げたことだ。…生活の質、空気や水の質、そして経済成長のための経済成長が破壊してきた多くの物の質を向上させることを望んでいる。…「経済成長を崇拝しない態度…」を指す…。」(8ページ)
なるほど。脱成長とは、あえて縮小させるということではなく、無理に数字的に成長させようとするような馬鹿げた企図をやめようということなのだ。世の中が経済成長なる幻想からいかに脱却すべきかということが、このところの私の思想的課題であり、この書物は、まさしく、今、私が読むべきものであることになる。
「まさしく、進歩・発展という信仰や宗教を捨て去ることなのだ。」(9ページ)
しかし、それは、大昔の過酷な生活に戻れということではない。
「…何でもよいのですべてを際限なく減らすべきだと主張する経済成長反対者はいない。重要なのは、生態系の再生産に見合う物質的生活水準に戻ることである。」(14ページ)
地球の生態系の中で、人類が滅亡しないようにするにはどうしたらいいのか。持続していくためには何が必要か。
そこで、やり玉に挙がるのが、GDP―国内総生産である。GDPというまやかしからの脱却である。ある種の宗教めいた盲信からの脱却である。
「良心的な経済成長反対者の大多数は、経済成長社会で盲目的に崇拝されている指標―国内総生産(GDP)―を放棄することを提案している。」(14ページ)
「イタリアで「幸せな脱成長のためのマニフェスト」を草案したマウリツィオ・パランテは、…GDP計算に入る商品並びにサービス―これらは有益ではなく、いかなる効用も提供しない―の生産を減らし、GDP計算に入らない日市場の財・サービス―自主生産、贈与と互酬性に基づく交換―を増やさなければならない。」(15ページ)
念のためにいっておけば、ここは、全てのGDP計算に入る商品並びにサービスが無益で効用がないと言っているわけではなくて、その一部がそうだと言うことではあるだろうが、かといって無視できないほどの割合だということだろう。具体的に減らすべき無用なサービスも、すでにリストアップされているに違いないが、たとえば、金融サービスの利潤や不動産価格の上昇などだろうか?
【自然現象としての成長と経済成長の区別、また、個別企業の成長と経済成長の区別】
問題は、成長という言葉にある。
ひとは、「成長」という言葉を否定しづらい。
人間は生まれてきて、子どもから大人へ成長する。これは、必然的な生物学的過程である。また、生物学的と同時に、一個の人格として社会的に成長すべきである。これも、正しい。まったく否定のしようがない。
さらに私が考えるに、個別の企業は成長して然るべきものである。社会に必要とされる企業であれば、成長してゆく。また、必要であり続ける企業は、長く存続して、老舗としてのれんが続いていく。一方で、社会的な使命を終えた企業は、看板を下ろす。別の言葉で言えば、淘汰される。これは、自然人が生まれ、成長し、老いて命を閉じるのと同様である。
しかし、世の中全体の経済成長とは、個別の企業の成長とはまったく別のことである。ここが難しいところで、世の中全体の経済成長は不要で、事ここに至っては害悪であるということが、あたかも、個別の企業の成長を否定していることだと混同されることが多い。ここがきちんと理解されなくてはならず、あるいは、理解されるように説明しなければならないところだ。
ラトゥーシュ氏も、次のように記す。
「…自然現象でありその意味で望ましい現象である「成長」という考え…自然界の有機体と自然界に存在しない経済体制 ―衰退と死を逃れ、そして地球生態系に埋め込まれていることから生じる諸々の帰結、つまり、熱力学の第二法則(エントロピー法則)をも逃れると言い張っている経済体制―との違いを強調しなければならない。」(16ページ)(アンダーラインは、書物では傍点)
【スローフード運動のカタツムリ】
スローフード運動のシンボルであるカタツムリについて触れられる。
「…脱成長はカタツムリの知恵の再発見を提案する。カタツムリは脱成長のシンボルとして採用された。カタツムリは、ゆっくりと生活する必要性を教えるだけでなく(例えば、スローフード運動の「スロー」)、もう一つ必要な教訓を与えてくれる。」(58ページ)
イヴァン・イリイチによれば、カタツムリは必要な大きさまで成長すると、精妙な構造の殻をそれ以上につくり出すことを止めてしまうのだという。
「…過剰成長からくる問題は幾何級数的に増大しはじめるのにたいし、かたつむりとしての生物の能力はせいぜい算術級数的にしか大きくなりません」(58ページ)
【ホモ・エコノミクスと経済成長というまやかし】
主流派経済学が前提とする、ホモ・エコノミクスは、いびつなものである。多様性に欠け、平面的な、薄っぺらな存在である。
「脱成長プロジェクトは、人間の未来を複数の運命へと再び開く。…一次元的な合理的経済人(ホモ・エコノミクス)を乗り越えて、諸社会は抑圧された希望と再びつながることで持続可能な未来を構築することができる。」(60ページ)
GDPという統計上の数字の大きさに囚われていては、人間は幸福になれない。
「…脱成長の政策の目的は、豊かさの生産と国内総生産(GDP)の間の力関係の逆転であると捉えることができる。諸個人の状況の改善を物質的生産の統計上の増加と切り離すのだ。言い換えると。生活経験としての豊かさを改善するために、統計的な「物質的所有量」を減らすのである。経済成長が減少すれば、経済成長の負の外部性も自動的に減るだろう。[経済成長の]これらの負荷は、交通事故からストレスに対する医療費、そして騒々しい広告に至るまで、生活満足感を与えるものではなく、しばしば有害である。」(60ページ)
宇沢弘文のいう外部不経済を積み増すばかりで、生態系が破壊されるに任せるばかりである。
【八つの「R」と、持続可能な「好循環」】
「経済成長社会との断絶、すなわち脱生産力至上主義社会の構想は、簡素な生活の「好循環」の形をとる。それは、再評価(reevaluer)、最概念化(reconceptualiser)、再構造化(restructurer)、再ローカリゼイション(relocaliser)、再分配(redistribuer)、削減(reduirer)、再利用(reutiliser)、リサイクル(recycler)の八つの「R」で表現される。…八つの目標は、穏やかで、自立共生的で、持続可能な簡潔さから成る自律社会へ向かう推進力となるだろう。」(61ページ)
驚くべきことに、この書物には、まったくまともなことしか書かれていない。私がこのところ書物を読んで考えていることが、端的に明確にまとめられている。ここに書かれていることを否定できるようなひとは存在しえないと思う。あとの課題は、ここに書かれたことが、どう具体的に実現していくか、しかない。
訳者あとがきに、こう書かれている。
「フランスの脱成長運動は、黄色いベスト運動や二〇一八年八月に始まった世界の高校生たちによるFridays For Future(未来のための金曜日)運動に連帯を示しながら、環境正義と社会正義を両立させる社会変革の必要性を訴えている。本書はそのような背景のなかで、脱成長社会への移行を実現するための諸条件を提示している。」(153ページ)
改めて書物の帯を見なおすと、あの斎藤幸平氏が、「本書は、〈持続可能な成長〉の欺瞞を暴くラトゥーシュ脱成長論の集大成である。」と推薦されている。
持続可能な地球と人類は、「脱成長」の先にしか存在しない、ということである。〈持続可能な開発〉の「開発」は多義的なところがあるが、この開発がイコール成長のことだとすれば、斎藤幸平氏の言うとおり、欺瞞でしかないわけである。
みなさん、どう思いますか?
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