この号は、「夏の作品特集 現代詩の歳月」ということで、そういえば、ベテランの詩人の作品が並んでいる。冒頭の谷川俊太郎も、明示はされていないが、その枠での掲載ではあるだろう。小詩集「はらっぱ 他六編」と銘打たれている。これらは、まさに、現代詩の歳月そのものであるような詩である。
【鳥羽Ⅰからの現代詩の歳月】
はじめの一編は、「はじまり」。
「なにひとつ
はじめなくていい
くさきはとっくに
はじまっている…(後略)…」
次は「はらっぱ」、
「それからここへきた
…(中略)…
りくつにあきあきして
ここに
はらっぱにきた」(第1連)
「…
にかいやのまどにうつる
にしびの
まぶしさ
ああ
なにも
いいたくない
このよを
そっとしておこう
ことばで
おこさずに
…」(第2連末尾から第3連後半まで)
こう読んできて、なにかどうにも懐かしい感覚のようなものが湧き上がってくる。記憶のどこかに響くものがある。ああ、そうだ、あの、「何ひとつ書くことはない」と書き出し、「本当の事を云おうか」と書き、「詩人のふりはしているが/私は詩人ではない」と書いた「鳥羽Ⅰ」(1968年刊の詩画集『旅』所収)である。もちろん、1952年のデビュー作『二十億光年の孤独』の世界観、というより宇宙感覚も響いているし、全編ひらがなの「ことばあそびうた」も響いている。
小詩集の3編目は、「ほんとか」。
「うそだ
とおもう
…
じぶんは
ほんとか
すきな
おんなよりも
じぶんは
ほんとか」(第1連冒頭と第2連の末尾)
4編目は「ふるいほん」で、次が「まだ」、
「…
ふいに
ことばが
あらわれて
きえる」(第2連の末尾)
6編目が「あきらめの」、冒頭4行、
「あきらめのもたらす
おだやかなかなしみは
くもがきれたあけがたの
そらのあかるさ
…」
最後が「よむな」、全3連を引かせていただく。
「ことばで
わたしをよむな
わたしは
そとにいる
ことばのはずれに
このほしの
きと
そらに
たすけられて」
どうだろう。「鳥羽Ⅰ」から半世紀を経た応答と読めないだろうか?
手元にある思潮社の『旅』完本版(1995年刊)のあとがきで、谷川は、以下のように書いている。
「詩画集『旅』が出てから26年経った。…
また、当時からさまざまな人が『旅』に言及してくれたし、作者としても今振り返ってみると、それがひとつの転機となっていると言っていいふしもある。少々うぬぼれて考えれば、現代詩の歴史の上でも『旅』はいささかの意味をもっているような気がする」
「鳥羽Ⅰ」は、日本の詩の歴史において、特段に重要な位置を占める作品のひとつである。詩に関心を持つ人々の総意に基づいてその地位を占めているとすら言いたくなるような詩である。
今号の小詩集は、現在の時点におけるその応答として、まさに、現代詩の歳月を語るにふさわしい詩編であるというべきだろう。
本来であれば、出版物にあたるよう促すべきところではあろうが、ここに、『鳥羽Ⅰ』の全文を引用させていただきたい。ここで語っている平仄について、理解していただくためではあるが、たまたまこの駄文を目にした方に、谷川俊太郎の、そして現在の詩の最も重要な一編に出会っていただく機会となるということを願いつつ。
【鳥羽1全文】
鳥羽Ⅰ
何ひとつ書くことはない
私の肉体は陽にさらされている
私の妻は美しい
私の子供たちは健康だ
本当の事を云おうか
詩人のふりはしているが
私は詩人ではない
私は造られそしてここに放置されている
岩の間にほら太陽があんなに落ちて
海はかえって昏い
この白昼の静寂のほかに
君に告げたい事はない
たとえ君がその国で血を流していようと
ああこの不変の眩しさ!
(引用以上)
特集では、他に白石かずこ、高良留美子、鈴木志郎康、とここでやめておくが多数の,「現代詩の歳月」に相応しい高名な詩人が取り上げられている。
【特集のアンケート これからの詩】
「これからの詩に思うこと」というアンケートの問いに、谷川は、
「これからの詩は今の日本の現代詩のコミュニティの外に現れるような気がしています。
具体的なイメージはありませんが。」(117ページ)
と答えている。
これは、世に興隆を見る現在のポップミュージックのことに他ならない、ともいえるだろうが、さて、どうだろうか。松本隆とか、中島みゆきとか、ユーミンとか,ひょっとするとあの、登場時からまがいものを演じ続ける桑田佳祐など、最近の若いアーティストは置いておくが、これらは、すでに現代詩のコミュニティの外に現れてしまった詩なのではないか。
そういうものとはまた別の、世に確固とした場所を占める「詩」が現れうるのかどうか。
(私自身は、そういうこれからの詩というものにどういう立ち位置をとろうとするのか?)
【連載 カッコよくなきゃ、ポエムじゃない 7回目】
豊崎由美、広瀬大志の両氏による「連載 カッコよくなきゃ、ポエムじゃない」の7回目は、「賞 must go on 詩の賞をめぐって」。
私は、この連載のタイトルは良いと思う。賛同している。今回のタイトルもいい。「ショウ・マスト・ゴー・オン」。賞は,常に必ずshowである。
「豊崎 …私はSF評論家・翻訳家の大森望さんとの共著『文学賞メッタ斬り!』シリーズで、長年にわたって芥川賞や直木賞の候補作や選評をウォッチングしているんですが、文学賞ってとても面白いんです。それで詩の賞はどうなんだろうと思って。…文学に興味がない人でも芥川賞、直木賞、本屋大賞は知っていますけど、詩の賞は全然知らないと思う。」(138ページ)
「広瀬 …詩人としては賞には賛成。大いに励みになると思っています。ただし詩の賞の場合、世間に対するアピールの有効性という点においては、うまく機能していないのではないかと思う。」(138ページ)
詩をいかに大衆にアピールしていくか、がこの連載のテーマである。今回は、詩の賞を取り上げて、どうすれば現代社会に現代詩を広めていくことができるか、ああだこうだと論じておられる。
「豊崎 …翻って詩の賞を考えると、興業の意識が低すぎる。なぜもっと盛り上げようとしないんでしょうか。せめて中原中也賞と、詩壇の芥川賞と言われるH氏賞ぐらいは、世間の半分ぐらいの人が権威のある賞だと認識できるようにしなければいけない。」(139ページ)
興業である。ショウである。
このあと、最近のH氏賞、中川中也賞、現代詩手帖賞その他の受賞者の作品を取り上げ論じていく。花椿賞など、終わってしまった賞が多いことも語る。
「広瀬 最後に言いたいのは、いま詩の世界で賞が萎んでいっているけど、少なくとも新人賞はわれわれの力で盛り上げていかなければならない、前衛の継続こそが詩の進化だからです。」(152ページ)
「広瀬 …今日の結論は「賞 must go on」。賞をとったら凄いことになるぜって、若い詩人に希望を持たせたいですね。」(152ページ)
世に確固とした場所を占める詩を産み、育む,その助産師、保健師たろうとする志は貴重であると思う。
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