ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

永井玲衣 水中の哲学者たち 晶文社 2021

2024-01-20 12:40:03 | 気ままな哲学カフェ
 永井玲衣氏は、現代思想の昨年5月の臨時増刊の鷲田清一の特集で、冒頭対談の聴き手を務められており、そこでこの書物を知ることとなった。
 晶文社というのは、サイのマークがついた、ハードカバーの白っぽい表紙の統一したデザインの書物しかないのだと思い込んでいたが、ペーパーバックもあったのかと驚いている。これは間抜けな時代錯誤というべきだろうか。しかし、いい出版社だという印象はあり、 永井氏が「晶文社という最高の出版社で本を出すことができたということ、私の人生の一番の自慢です」と、あとがきでおっしゃるのは、よく分かる。私自身が、そういう僥倖に恵まれたならまさに同じことを言ったに違いない。
 晶文社の本は、本棚をちらっと見た限り、木田元が1冊と、國分功一郎が2冊あって、何のことはない、國分氏のほうはペーパーバックだった。どれも哲学書である。
 永井氏は、ブックカバー裏の紹介によれば、

「1991年、東京都生まれ。哲学研究と並行して学校・企業・美術館・自治体などで哲学対話を幅広く行っている。哲学エッセイの連載なども手がける。独立メディア「Choose Life Project」や坂本龍一・Gotch主催のムーブメント「D2021」などでも活動。詩と植物と念入りな散歩が好き。」

とのことである。
 なるほど。哲学と詩か。

【手のひらサイズの哲学】
 永井氏の哲学は、まえがきをみると、小さな、手のひらサイズの哲学であるという。

「借り物の問いではない、わたしの問い。ささやかで、切実な呼びかけ。
 そんな問いをもとに、世界に根ざしながら世界を見つめて考えることを、わたしは手のひらサイズの哲学と呼ぶ。それは、空高く飛翔し、高みから世界を細断し、整然とまとめ上げるような大哲学ではない。なんだかどうもわかりにくく、今にも消えそうな何かであり、あいまいで、とらえどころがなく、過去と現在を行き来し、うねうねとした意識の流れが、そのままもつれた考えに反映されるような、そして寝ぼけた顔で世界に戻ってくるときのような、そんな哲学だ。」(p.5)

 さらに、最初の章「水中の哲学者たち」を読んでいくと、

「世界は一見まともなようで、実はかなりすっとぼけている。」(p.15)

 その例として、水が取り上げられる。

「たとえば水。高校生の頃、お風呂に入っていて、突然思った。なんだこれは?水を手ですくって触ってみる。奇妙だ。めちゃくちゃだ。手からするすると水はこぼれ落ちる。意味がわからない。…見慣れたもの全てがぐにゃりと歪み始める。世界が崩れてしまう。いや、目の前に広がるこのまるごと、世界ってなんだ。なんであるんだ。ある、ってなんだ。答えてくれ、世界。」(p.15)

 これは、いかにも高校生らしい世界の発見の仕方かもしれない。そして、哲学に導かれる。しかし、哲学書を紐解くと、脳が爆発してしまう。

「手始めに、サルトルという名前の哲学者が書いた『存在と無』という本を開いてみる。

 存在とはばばばばばびぶぶべべぼ、あるところのものびびびばば、ではないところばばっええじゃややえあくうしたわかちこわかちこ…(中略)…すこらびばばびび、じつぞんしゅぎ

 本を閉じた。脳が爆発してしまう、と思った。」p.16

【サルトル『存在と無』】
 私自身は、高校生の頃、サルトルよりも先に、岩波文庫のハイデガーの『存在と時間』を手に取ったが、やはり、途中で断念してしまった。その後、再度手に取って、なんとか読み終えることができた。
 ちなみに、『存在と無』は、卒論で、人文書院版の翻訳であるが取り組んでいる。「生におけるフィクションについて」というタイトルだが、優良可不可の最低のぎりぎりラインの可であった。原著にあたるような語学力もない。指導教員は、とか言い出すと長くなるので省略。
 で、本棚から、『存在と無』を久しぶりに引っ張り出してみると、冒頭のあたりに下記のようなくだりがある。

「けれども、ひとたびわれわれがニーチェのいわゆる《背後世界の錯覚》から脱却して、現れの背後にある存在をもはや信じないならば、現れは、逆に、充実した確実性となる。…(中略)…なぜなら存在するものの存在とは、まさにそれがあらわれるところのものであるからである。かくしてわれわれは、たとえばフッセルもしくはハイデッガーの《現象学》に見られるような現象の観念に到達する。」(サルトル全集第十八巻『存在と無 第一分冊』松浪信三郎訳、人文書院、昭和31(1956)年p.12。手元にあるのは昭和52(1977)年の重版。下線は、引用元では傍点。)

 まあ、確かに脳は沸騰するかもしれない。

【水中の哲学、対話】
 さて、この著作のタイトル『水中の哲学者たち』に相応しいところはどこかと探してみると、下記のような記述がある。

「何かを深く考えることは、しばしば水中に深く潜ることにたとえられる。哲学対話は、人と一緒に考えるから、みんなで潜る。…ファシリテーターをする…わたしもまた、一緒に潜り、考える。
 …わたしは、対話のなかでひとびとの、よどみ、つっかえ、言葉にならなさ、奇怪な論理、わかりづらさに惹かれる。」(p.18)

 水中のなかで対話するのは、通信機材なしでは不可能なことだが、マイクとヘッドフォンを装着しても、あんまりクリアにはならないように、雑音に満ちて聞きとりづらいようにイメージされる。最近のテクノロジーにおいては、明晰判明な会話も可能かもしれないけれども、素では不可能であることに違いはない。
 一方、陸上での、日常の気晴らしのおしゃべりや、業務上の必要事項の伝達は、おおむね、意志が通じ合っているというべきだろうが、音声としての言葉は通じているのに、なにかどこか話がずれる、真意が伝わらないという事態は、しょっちゅうあることではないだろうか。
 真剣に深く話をしようとするとき、どこか話が伝わっていないという感覚はありえる。あたかも空気中ではなく水中で話し合っているような感覚に襲われるときはある。

「だが、同時に、哲学対話をしているとき、あともう少しで「わかる」ということにたどり着けそうな感覚に陥ることがある。それは「最適解」のような暫定的なものでもなく、「共通合意」というような、その場だけの取り決めでもない。もっと普遍的で美しくて圧倒的な何かだ。それに到達するということはない。その予感がするだけ。
 にもかかわらず、その予感はひどく甘美で、決定的なのである。」p.19

 この甘美さがあるからこそ、対話を続けることができるのだろうか。ほんとうにはわかり合えないのにもかかわらず。
 
【哲学対話はケアである】
 しかし、ほんとうにはわかり合えないのにもかかわらず、対話を続ける意味はあるのだろうか?

「哲学対話はケアである。セラピーという意味ではない。気を払うという意味でのケアである。哲学は知をケアする。真理をケアする。そして他者の考えを聞くわたし自身をケアする。立場を変えることをおそれる、そのわたしをケアする。あなたの考えをケアする。その意味で哲学対話は闘技場ではあり得ない。
だからといって、哲学対話は共感の共同体ではない。…「dialogue対話」という言葉は、…古代ギリシャ語の「dialogosディアロゴス」からきており、「logos言葉」を「dia通じて」ひととひととが交わりあうことを意味するとされている。そしてその派生語には…「弁証法」がある。」(p.97)

 弁証法とは、単なる共感でもなければ、闘争でもない。「異なる意見を引き受けて、さらに考えを刷新することだ」(p.98)という。

 ケアという言葉は、精神科医の中井英夫や、もちろん、鷲田清一の言うケアである。さらに、リフレクティングとかオープンダイアローグに通じるところだとわたしは考える。

【自由、主体、中動態】
 永井氏は、後半のある箇所で、サルトルの言葉を引いている。

「あなたがたが生きる以前には生は無である。しかし、これに意味を与えるのはあなたがたであり、あなたがたの選ぶこの意味以外において価値というものはない。」(p.197)

 引用元は、『実存主義とは何か』伊吹武彦訳、人文書院、1996年、とのこと。(わたしの手元のサルトル全集第十三巻(昭和49(1974)年改訂重版、p.69)では、「諸君が…」と書き出されるなど、若干の異同がある。)
 これはもちろん、われわれは自由であり、主体的であらねばならないと言うことである。しかし、その主体性とは、國分功一郎が中動態ということばで語るような、能動的でも受動的でもあり、でもないような意味での主体性である、と現時点ではいうべきであろう。
 少々ページをさかのぼると、永井氏は次のように語っている。

「わたしは祈る。どうか、考えるということが、まばゆく輝く主体の確立という目的だけへ向かいませんように。自己啓発本や、新自由主義が目指す、効率よく無駄なく生をこなしていく人間像への近道としてのみ、哲学が用いられませんように。それらが見せてくれる夢は甘い甘い夢だ。いつか、その甘さはわたしたちを息苦しい湿度のなかで窒息させる。」(p.125)

 あとがきの最後で、氏は次のように綴って、ペンを置いている。

「このめちゃめちゃで美しい世界のなかで、考え続けるために、どうか、考え続けましょう。」(p.265)

 2024年1月20日の今日この時点で、世界はまさしく「めちゃめちゃ」としか言い様がないが、しかしあえて、永井氏に倣って「美しい」とも言い続けたいものである。

【余談】
 余談かもしれないが、永井玲衣氏は、上智大学大学院博士課程在籍で、立教大学兼任講師でいらっしゃるようで、立教大学哲学の河野哲也教授とともに被災地を訪問し、哲学対話をおこなっていらっしゃるようである。ということは、8~9年前に気仙沼にもおいでになって、気仙沼図書館でお会いしていたのかもしれない。別のメンバーもいらっしゃるので、定かではないが。




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