ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

いま・ここ

2008-12-17 00:12:19 | 寓話集まで
           「あかるいきざし」を聴きながら

バラが一輪咲いている
ローズピンクよりずっと明るい薄桃色のふちどりで芯の白い花弁が二十数枚重なっている

頼りないヴォーカルと単調な繰り返しに充ちた新しいCDを
四歳になろうとする子供が
体を揺らしながら何度もスタートボタンを押して繰り返し聴いている
アコースティックなサウンドと思想を
エレクトリックなシステムでもって表現する
ここちよいパラドックス
ある種の脳内物質の分泌を促すとでもいうような単調な繰り返しのマジック

「宇宙のはてまでたびしてたどりつくところはいつものいまここ」
と腹から出ていると言えないか細いしかし不思議な力強さはある声でこの歌い手はうたっている
「いまここ」はパラドクスに充ちている
「地球はさあ泣いているよ」という現在から
「よあけまえのあかるいきざし」が象徴する未来への展開は
ある意味で果敢に過去を取り戻すことでなければならないのだが
それは
「バビロン」からの逃走ではなく
「バビロン」内部における闘争でなくてはならない
「バビロン」を享受しながらその先を構築するのでなければならない
神から選ばれたノアは「いまここ」には存在しないのだから
「わたしがかわればすべてはかわる」とうたうのはそういう「いまここ」における志の表現である
神になりかわる新興宗教の教祖のふりをしているのではないはずだ

「いまここ」はパラドクスに充ちている
「いまここ」にはワープロソフトの手をやすめてコーヒーを飲みタバコをふかして一輪挿しのバラを眺めるぼくが存在する
ボタン一つ押せば録音の良いCDが聴けレンジで輸入えびを解凍できる生活において前夜のゴミ問題についてのTV番組を思い起こし原発のことなど思い浮かべる

バラは美しく音楽はここちよい
妻は美しく子供は元気だ
 
※「……」内はもん(=熊谷門)のアルバム・あかるいきざし からの引用。






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1 コメント

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この詩について ()
2008-12-31 23:26:01
 熊谷門は、30年来の友人。中学校のころ、門に誘われてバンドを組んだ。コピーした最初の曲は、テン・イヤーズ・アフターの「ラブ・ライク・ア・マン」。
 今の私が私であるのは、門の影響が決定的なものだと思っている。
 いま、21歳になる息子が、ここで4歳と書いているということは、16年前の詩。思想は、全然変わっていない。基本的には、中学校の頃から、全然変わっていないと思う。若干進化、深化はあるのだろう、無きゃ困るというところだけど。
 私の妻は美しい、という詩句は谷川俊太郎にならっているが、相変わらず、私の妻は美しい。
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