おはようございます。今日は朝から良い天気で、いよいよ夏本番ですね。
前回は、プラハの春の記事のうち、ソ連との極秘会談についてお伝えしましたので、今日はその合意内容からお話したいと思います。
合意内容は、
1 共産党の指導的役割の擁護
2 検閲の復活によるマスメディアのコントロール
3 非共産党系政治組織の解散
4 改革派の更迭
であるとされています。
そして、おそらくこの合意を受けてだろ思いますが、8月にはブラチスラバにワルシャワ条約機構加盟国が集まり、共同声明が発表されたのです。
また、この会談で、チェコスロバキアの保守派から軍事支援を要請する書簡がブレジネフのもとに届けられたのです。
もちろん、ブラチスラバの共同声明の内容は、ソ連との合意そのものだったのでしょうが、強引に軍事支援の書簡を出してしまうのですから、いかにチェコスロバキアの体制が分裂していたかがお分かりだと思います。
この合意内容は、改革をやめるということですが、ドゥブチェクさんもソ連との会談に出ているはずですから、さぞ苦しかったでしょうね?でも、彼は、ブレジネフさんからの合意内容実行の再三の催促に応えることはなかったそうです。
ドゥブチェクさんの戦略や戦術がどのようなものであったか分かりませんが、改革に対する国民の期待と支持は強いものがあったでしょうし、軍事介入まではしないと考えていたのでしょうか?
「ソ連との関係は、のらりくらり、とかわした」かどうか分かりませんが、これで、ソ連はすっかり怒ってしまったのでしょうね。
とうとうソ連の政治局会議で軍事介入が決定され、ワルシャワ条約機構の国々にもその決定を伝え、了承を得たのです。
それらの出来事があったのは8月15日から18日までのことですが、ワルシャワ条約機構軍が国境を突破したのが8月20日ですから随分と早い対応です。
プラハの市民は驚いたでしょうね。街中にいきなりよその国の戦車が走り回り、おそらく銃や大砲をぶっ放したのでしょう!そして、多くの市民が犠牲になったのではないでしょうか?
その後は、チェコスロバキア政府から軍事介入を非難する声明がでたり、新政府の樹立を目指していたソ連の計画が頓挫したりと改革の灯りはなかなか消えなかったようですが、ブレジネフドクトリンといわれるソ連の強引な政策により軍駐留条約が締結され、翌年の4月には、党第一書記が交替して「プラハの春」は終わりを告げたとされています。
国際的なルールである内政不干渉や主権尊重といった考え方など簡単に踏みにじられたという悲しい歴史が残ったということでしょうか?
人間というものは、政治体制や宗教、国益などをめぐって、戦争という名の人殺しも平気で実施する恐ろしく悲しい存在なのでしょうか?
長い長いレポートで、また、小生の勝手な推論を述べたりしましたが、これで「プラハの春」を終わりにさせていただきます。
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