手稲は最高!

手稲在住30年、手稲って本当にいいなって常々思っています。時に触れ、折に付け思いついた事を、取り留めなく書いてみます。

明日は、日ハム対中日戦を見てきます

2009-06-12 19:16:08 | 思い出 1 生い立ち、

 明日の日ハム対中日戦のチケットを頂いた。家内と二人で観戦してきます。

 明日は結構忙しい。午前中、パークゴルフの大会に出る。トリブルゲームという大会です。去年も有ったみたいなのですが、私は出ていない。イメージからすると、3人のメンバーが決まって。その3人のトータルスコアで競うように思うけれど、どうも違うらしい。試合は普通どおり4人一組で27ホールのストロークプレーをやり、順位は、くじ引きで3人づつまとまり、そのトータルスコアの上位が入賞になるらしい。二人がいいスコアでも私みたいなものが籤で入っちゃうと、それで終わりということになる。

 まあ籤運みたいなところがあるのだから、あんまり責任を感じなくてもいいのかもしれない。ただ心配なのは、試合が終わってから改めてくじ引き、採点をしていると時間がかかる。私は、12時前に帰宅して、平和教場の詩吟に出かけなければならないのです。明日、車を出し易いところに置かなければならない。

 15時30分くらいまでに帰宅したいものだ。それからドームに出かけると丁度いい時間につけるのです。帰宅は、やっぱり23時過ぎになるのでしょう。

 遠いのだけれど、余り気にせずに行ける。慣れたせいもあるかもしれない。8月の頭にも、券がきている。家内は選手の名前も余りわからないのだけれど、それでも付いてくる。
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字東雲

2008-07-08 20:08:23 | 思い出 1 生い立ち、

 プログを書き始めたころにも取り上げたと思う。

 私の青少年時代は、上川郡上川村字東雲ですごした。

 東雲・・・「しののめ」「とううん」・・・私は、「しののめ」が正式で「とううん」は通称と思っていた。

 昨年、東雲小学校の閉校式に参列してきたのだが、そのとき「とううんしょうがっこう」と呼ぶことに統一されていたの聞いて、一寸寂しい気もしたけれど、下に小学校が付くと、しののめ小学校はややかったるくなる。とううん小学校でいいのだ。

 それはそれとして、この田舎では、七夕は8月7日に決まっていた。子供達は柳の木を切ってきて、家の前に杭を打ち、それに縛りつけ、柳の枝に思い思いのことを書いてぶら下げ、お飾りを飾って、夜になると浴衣を着て、提灯をともして、隣近所の家に「ローソクダセダーセヨ・・ダサヌトカッチャクゾ」とわめきながら歩き、お菓子などをもらって歩いたものだ。そして、翌日その柳の木を安足間川まで持って行き、川に流したのでした。

 7月7日だと、どうもぴんと来ない。七夕祭りは納涼の祭りで、夏の盛りではなんとも風情が感じられない。

 今や個人のお宅で、七夕祭りをしている様子が見られない。家族を離れた子供会などのイベントになっちゃっている。

 失われていく伝統行事・・・・盆踊りも祭りのショウとなっている。何か寂しいおもいが湧いてくる。
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駄目ですね!!! 何度同じ失敗を繰り返すのか・・

2008-06-12 21:26:15 | 思い出 1 生い立ち、

 昨夜は、ブログも書かずに後始末をしていた。

 伝統芸能祭のプログラム印刷を昨日の午前中にやった。原稿、完璧だと思っていた。何時もどこかでミスがある、今年はないと思っていた。だが、ミスがありました。こんな思いをするから念を入れればいいのに、自分を過信しているのだ。

 途中何度も確認しながら作ってきたはずで、間違いが無いと思っていた。

 でも、有ったのだ。自分が作ったミスです。仕方ないから訂正カードを作ってプログラムに挟み込んだのです。すでに配布の終っている会へは電話で、連絡をすることにしました。

 おまけに、北詩連からは、要するに支部内に私から周知して参加者を報告して欲しいというような文書が来た。結局30通ほどの封書を作って今日発送した。

 そんなこんなで、暇なし。地域振興課にお願いしておいた、伝統芸能祭のポスターできたと連絡があった。明日頂いて、貼り出しの手配をしなければならない。

 
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小学校の卒業式ころの思い出

2008-03-13 20:25:00 | 思い出 1 生い立ち、

 私の育つた小学校は、複式の小さな学校だった。

 複式というのは、違う学年二つが同じ教室で勉強するのです。六年生まで有るけれど、教室は三つということになる。

 こんな学校で、高等科2年まで修了したのです。

 学校は勿論木造、フローリングなどあるわけが無い。ストーブだって薪ストーブだったのです。

 この小学校の卒業式に当たっての大掃除は面白いものでした。まず、本来拭き掃除になるのですが、拭きません。校舎に雪を入れる。生徒は靴をはいて、雪の上を滑って歩く、綺麗にこすった後で雪は掃き集めて捨てる。教壇は外に出して、堅雪の上を滑らせて綺麗にする。こんな掃除でした。

 体育館は無く、仕切りの戸を外して2教室つなげたのが会場となるのです。

 父が私の1年のときに、この小学校の校長になり15年勤めました。その間校舎の改築が無かったから、この掃除は卒業まで毎年経験していたのです。

 そんな学校だったけれど、楽しかった。全校生徒がお互い名前も顔も、家の場所も判かり合っていて、みんなチャン付けで呼び合う。いじめなんて全く無縁の時代でした。

 父が転勤した後、改築され、立派な校舎に変身していたが、その小学校も昨年の3月に閉校式となった。

 昨年、閉校式に出席してきた。ひょっとすると、去年のうちに校舎も撤去され、今は、思い出のよすがもなくなっているのかもしれない。3月の堅雪の時期になると、とても懐かしく思い出されるのです。
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昭和16年12月8日・・・・・真珠湾・・・・・ 

2007-12-08 20:55:24 | 思い出 1 生い立ち、

 確か小学校5年のときだったと思う。大東亜戦争といった戦争の幕が開いたのだ。何も判らない田舎の小学生は、真珠湾でアメリカの海軍を全滅させるような大勝利を挙げて、戦争に入った事を嬉しく思ったものだった。

 「大本営発表、大本営発表!!」とラジオから流れる報道をきき、子供心はおどっさていたのでした。

 終戦後、いろいろと知るなかで、なんて馬鹿な戦争をはじめたものだとあきれるけれど、逆に、大変な代償は払ったけれど、今の日本に生まれ変われたのはこの戦争のおかげだと思うと、よかったのかとも思ったりする。負けるのは当然の戦争だったが、負けてよかったのです。

 敗戦で戦争は終ったし、けりはついたようだけれど、実は、戦争の清算はまだできていないのだ。

 ロシヤと平和条約が結べていないし、北朝鮮ともそうだ。他にもまだ多くの問題がくすぶり続けている。国内的に多くの問題はあるにしても、いつまでも放置できない問題だ。政府に毅然とした決断を求めたい。

 日本政府の外交力は、なんとも情けない限りだ。いろいろな面で先進国であるはずの日本が、世界からは自主性に欠ける、単なる金持ちくらいにしか見られていないのじゃないか。いろいろな面で、日本にリーダーシツプを期待する国は少なくなっているように感じる。

 日米関係で、日本国内に多くのアメリカ軍の基地を提供し、その経費を負担してアメリカの核の傘の下で、アメリカにNOといえない状況では、どうにもならないのかもしれない。

 
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二日間投稿した記事が掲載にならない

2007-11-30 09:40:08 | 思い出 1 生い立ち、

 一昨日の記事が昨日掲載されなかった。自分の間違いなのだろうと思って昨日別の記事を送付しました。

  今開けて見たら、昨日のも掲載になっていない。

 二日続けてね同じ間違いをしたのでしようか・・・。それとも、あんまり量が多くなったので、載せていただけなかったのでしょうか・・・。

 エディターが今日から変わったことに関連するのでしようか

 ま、改めて書きます。

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4月も下旬です  

2007-04-22 21:31:49 | 思い出 1 生い立ち、

 旧暦なら晩春なのでしょうが、北海道は今が初春のようなのです。一番花のクロッカスが咲き終わりかけている。これから次々と花が春を彩ることとなる。隣の紫つつじは咲き始めている。

 今日も午前中パークに出かけた。暫く姿を見せなかった工藤さんたちが今日は来ていました。来なかった間に森林公園だとかオーシャンだとかに行っていたということでした。今日は酷いスコアでした。27H、94、パットもショツト全然駄目、最後バッタおまけの一回り。時間が11時過ぎだったので、もう一枚券を使って遊んでいたら、渡さんが、同じようにして一人でやってきた。二人でコオロギ入り二周り遊んできました。最後のコオロギりが、27今日の最高でした。

 今週が詰まっています。詩吟4日はいつもの通り、火曜日は、野球ロッテ戦ドームに行ってきます。水曜日は、ダンスのあと「いの平」で俵さんと一杯。27日は手稲文化協会定期総会、29日は北詩連定期総会そして懇親会。

 連休は、いつも連休みたいだからどうということも無いのだけれど、詩吟も休みますので私も連休ということですか。一日都合をつけて行者ニンニク取りに行って来たいのだけれど、今の体調で、あの崖のぼりが出来るのか不安です。天気がよければハイキング方々行ってこようか・・・。
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久しぶり 俵さんとの 「いの平」行き 今晩

2006-02-22 10:16:36 | 思い出 1 生い立ち、
 午後はダンス、そして 晩は 俵さんとの 久しぶりの「いの平」。
今晩ブログを書く暇なくて、今書いています。

 江別の本田君も、待っているのかもしれないけれど、本田君と飲むことになれば、俵さんを誘うわけにいかないから、この次にします。

 確定申告、今年からまたやらなくてはならなく成りました。明日でも行ってきますか。明日は、車も車検に出す予約をしているのです。

 ホテル札幌会館倒産 !! 北詩連の資格審査会場だったのに、残念です。
でも、今度は厚生年金会館を使うとか、そうすれば、今までより楽にはなるのですが、費用はどうなのでしようか。そんな心配はわたしたちのすることではないのでしょう。
 
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お祭り、正月、お盆 など

2005-12-03 10:52:25 | 思い出 1 生い立ち、
 みんな様変わりしました。特に正月は全く変わりました。私たちの育った頃は、12月の28日頃に餅つきがどの家でも有り、早くに搗いた家からは、おすわけが届けられたりしたものでした。前の日にもち米を潤かして置いて、当日朝早くから蒸篭で蒸して、杵で搗くのです。小さいうちは、父が搗き、母が手返しをする。それを側で眺めていれば良かったのですが、高校生の年齢になると半分くらいは、搗かされました。特に私の家は兄弟が多かったので、多い時は1俵60Kくらい搗いたものです。餅の種類も、普通の伸し餅、豆餅、餡子餅と作られ、一晩寒いところに並べて凍らせて保存するのです。正月中は、殆ど毎食餅ということに成ります。それだけの量でも、大抵10日前には品切れになったものでした。 正月の遊びは、カルタ取り(百人一首)が一番多い遊びでした。今日はどこの家、明日はどこといったように、何軒かを回ったものです。お菓子といって特別のものはなく、みかんがせいぜいです。それも凍ったみかんになることも多かったものです。 お店も正月三日間は大抵休み、初売りの日は、お年玉でわずかな買い物をするのが楽しみでした。正月料理も長持ちするようなものが多く、毎日同じものを食べることが多かったと思います。それでも食べれることが幸せだったのです。 
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子 供 と 歌 (私の経験から)

2005-08-19 21:48:04 | 思い出 1 生い立ち、
私の小学校時代は、戦時中だから、歌といえば、軍歌だった。でも、学校で唱歌として教えられたものの幾つかが、今も忘れることが出来ず、日本史となって私の心に染み付いている。「ふなさかやまやすぎさかと、みあとしたいていんのしょう、びちゅうをいかできこえんと、さくらのみきにじゆうじのし、てんこうせんをむなしうするなかれ、ときはんれいなきにしもあらず」この歌は、ただ、建武の中興のおり、名和長年が、隠岐に流されることになった後醍醐天皇を救うため、後を追い、桜の木の幹を削り、十字の詩を書いたという話だということしかわからなかったが、づうっと気になっていた。それは、漢字を当てはめることが出来ない、そして詩の意味がよくわからないということだった。
 後年、きちんと理解できると、この歌が好きになった。そして、この歌を通して建武の中興がわかり、さらには中国の歴史にまで広がり、知識を積み上げることが出来た。同じように、「青葉茂れる桜井の、、、、」とか「一の谷のいくさ破れれ、、、、、、、」といった歌は、歴史の勉強になった。
 お袋が一寸変わった人で、旧制高校の寮歌を知っていて教えてくれた。「ああ玉杯に花うけて」とか「都ぞ弥生の花紫に」といった歌を歌い、子供心に、憧れのようなものを感じさせてくれていた。
 また、小学校の時、父の楽譜の中に「波浮の港」というのがあり、父が歌ったのを聞いて、好きになり、その楽譜を見ながら覚えて、ずうっと歌い続けていた。いわば、私の最初に覚えた流行歌が「はぶのみなと」だったのだ。「磯の鵜の鳥や日暮れにゃ帰る、、、」

 子供の時に、覚えたり聞かされたりする歌が、その人の人生に大きな影響を与えるものなのだと確信しているけれど、時代の流れはそんな思いを遥か越えて、全く別の音の世界を作り出し、子供たちを誘なっているのだ。
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