手稲は最高!

手稲在住30年、手稲って本当にいいなって常々思っています。時に触れ、折に付け思いついた事を、取り留めなく書いてみます。

市長杯パーク 手稲地区予選

2005-07-31 21:43:39 | スポーツ
 後3点、3点は大きい、でも手の届く範囲なのだ。ようやく調子も上向いているし、8月は頑張ろう。
 珍しい人に会った。西陵の同僚で、転出した佐賀先生。声を掛けられ判らなかった、名前を聞いて思い出した。前田に家を建てたのを聞いていた。去年退職して以来パークゴルフにはまっているとのこと。今日は私より1点悪かったが、若いしテニスをやっている運動家だから、間もなく私などは相手で亡くなるでしょう。
 今サッカーの北朝鮮との試合を見ていたが、1対ゼロで負けた。北朝鮮に圧倒されていた。これでは、この大会びりになるんじゃない。海外組みを出さなくちゃ駄目なのか、そうも思わないのだが、相手をなめたような隙だらけの試合運びで始まって、点を献上するようなパスで取られた1点、それで負けた。ワールドカツプが思いやられる。
 
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詩吟  新入会員見つかる

2005-07-29 20:08:30 | 詩吟関係
 何と、伝統芸能祭で、私が解説をして源義経にかかわる三題を吟じたのを見て、覚えていてくれた方と偶然会った。とても解説がわかりやすくて、詩吟を楽しく聞かせてもらったと褒められた。その方が、手稲第二教場に入会してくださることとなった。
 伝統芸能祭の「あいくる」写真展を見て、見学に来てくれたのだそうです。大河ドラマ「義経」見ているので、興味もあったし、その夜の「義経」が、鵯越で、解説を思い出しながら見たとのことでした。
 実は、今日、第二教場の稽古日なのですが、第5週で休みだったのです。うっかり出かけて、休みに気がつき、それで「昼カラ」の行きつけの店に、カラオケを歌いにいったのです。お客が、ボックスに5人、カウンターに1人でした、カウンターの女性の横に椅子二人分はなれて坐ったのですが、そのカウンターにいた女性が、この方なのです。店のママが私のことを詩吟の先生だと話したら、伝統芸能祭で解説していた人でないとその人が言ったので、ママが伝統芸能祭のプログラムを持っていて、それを出して話になったのだそうです。そのママの持っていたプログラムというのが、伝統芸能祭を見ての帰りにその方が店に寄り、プログラムを二枚持っていたので1枚を、今、これを見てきたのといっておいていったものだそうです。 そんなことで、話をすることになり、詩吟をやりましょうと誘ったところ、金曜日のこの時間帯は空いているということで、入会してくれることになった。
 東京の浅草育ちだそうです。息子さんが手稲に住まっていて、息子さんのところで、一緒に住んでいるのだそうです。
 ともあれ、8月から、第二教場、2名進入、平和でも1名、入ってくれそうな話がある。3名増えるということは凄いことです。 
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村橋久成胸像「残響」建立除幕式の案内届く

2005-07-28 21:18:03 | 随筆「残響」
 以前、偶然「いの平」で「残響」の作者、田中さんとお会いして、胸像の移設期成会の話を聞き、ささやかな協賛金を贈らせていただいていたのですが、昨日、全く思いもかけず"「残響」建立記念行事への案内状(写真)が届いた。
 写真の下の部分の文字が読めないと思いますので書いてみます。
    村橋久成胸像(1842~1892)
    (開拓使麦酒醸造所創設の功労者)
 かって‥‥一人の男の強い意志が北の地に熱き命を吹き込んだ
       そして今‥‥その残響が鳴り響く

 9月23日 知事公館前庭で除幕式があり、その後「ちえりあ」で記念演劇の公演が有り、17時30分からサッポロビール園で祝賀会があるという。

 出席させていただいてよいか判らないけれど、当日は祝日で詩吟の教室も休みなので、出席させていただくことにして返信を出した。
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台風7号、札幌はわずかな雨だけ  でも

2005-07-27 20:20:46 | 身辺雑記
 午前中、雨らしい雨が来た。でも、台風とはまったく思えない程度、昼前にもう上がってしまった。
 今日は水曜日、午後ダンスの日。出席は少ないのかな、と思いながらいってみた。やっぱり予想通り、台風の影響でしょう、男6名女4名、寂しいダンスになりました。
 18:30、歯医者に行く。一昨日抜いた歯の入れ歯の跡に、入れ歯を継ぎ足してくれた。歯があったときよりかえって調子がいいように思う。
 明後日また行くのですが、多分、今日、上の歯の歯石落しをしたから、今度は下の歯の歯石をやって終わるのかも知れない。以外に簡単に終わりそうで有難い。
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歯を抜いた  大事な大事な1本を

2005-07-25 20:17:15 | 身辺雑記
 私は、上下共にかなりの部分がいればなのです。特に上は、真ん中5本はと左奥数本が無く、左側の前と奥の間に3本残っていて、その3本に支えられたいればなのです。その支えの3本もあまり丈夫ではなく、何時駄目になるか心配していたのです。それが、3週間ほど前から、支えの歯の一番左が痛みだし、歯茎にまで影響が出始めたので、覚悟を決めて、先ほど歯医者に行って来ました。一番悪い歯だけ抜きましょうと、いとも簡単に抜かれました。残りの2本もよい状態で無いけれど持つだけ持たしましょうという先生の話。何とか、総入れ歯に近い状態は回避できそうなので安心した。
 歯医者は、長いことかかるのです。多分1か月は覚悟しなければならないのでしよう。
 歯医者でヤスリを掛けられるのが一番嫌だ、唾液が喉に詰まりそうになり苦しくなる、あれに耐えるのがやりきれない。今回の治療がどんなことになるのかわからないが、あの苦痛の少なくて済む治療であって欲しいものです。
 抜いた後が麻酔切れで、痛み出している。
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永山農業 3年 卒業記念写真の1枚

2005-07-23 21:31:36 | 思い出 1 生い立ち、
 この仲間が私の永山時代の仲間です。「スズラングループ」と名づけて、三高寮歌の節で歌まで作って、いい気になっていた。その仕掛け人は私だったのです。しかし、このグループの中心はこの頃、川村尚になっていたのでしょう。写真の真ん中にいる男です。
 私は、なんとも覇気に欠けた駄目男になっています。汽車通になり、仲間とも一寸距離が出来ていたかもしれません。
 一番悪いのは、勉強を全くしなくなっていたということです。1年2年のときの写真と比べるとよくわかるような気がします。
 手前左端が本田君ですが、彼だけが他界してしまいました。今クラス会に出てくるのが川村と私の隣に写っている稲田、手前右端の田中君は、2回続けて欠席していた。清水君は出てきたことなし。
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久しぶりの「いの平」、 佐藤安弘さん来る

2005-07-22 21:28:51 | 無題
 一昨日、俵氏より電話。「今日、いの平の日だけれど、都合が悪いから、明日にしたくれないか」といってきた。先月、私の都合で、第3水曜にしたのだけれど、継続して第3にした心算は無かった。でも、OKということで、昨夜、出かけた。
 相撲が終わって出かけた。行ったら、既に俵氏、常連の高橋さん、山崎会長、それに駅長さんが来ていた。定山渓、山渓苑での、芝居の役者一行との記念写真を、旅行を主催した駅長さんが持ってきたらしく、その写真を見て盛り上がっていた。
 そんな輪の中に入って飲みだして、少ししてから、俵氏が「佐藤さん今日来るのかい」という。私は、佐藤さんが来るはずは無いと思っていて、それを言おうとしたら、ママが「佐藤さん昨夜いらっしゃった、歌も歌って行って、今晩も来るかもしれない」というか言わないうちに、何と佐藤さんが入ってきた。
 噂したら何とやらとか言いながら、席を作って楽しむこととなった。実は、以前に書いたこともあるはずなのですが、癌の治療中で、抗癌剤を使っている状況なのです。
 体調がいいはずは無いのだけれど、落ち込んでいては、癌と戦えないという気持ちが体を運ばせているのだと思う。
 話たり、歌ったり、10時まで盛り上がって帰ってきた。三人会が二人会になっちゃったと思っていたのが、思いがけず三人会になって、楽しい夜を過ごせました。
 佐藤さんには、本当に、癌に打ち勝って、また何回も三人会が開けれるようになって欲しいと念じています。
 
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永農 2年時  チョット生意気な、、、

2005-07-19 21:49:39 | 思い出 1 生い立ち、
 入学時の写真をこの前出したけれど、その写真との落差、チョット自分でも驚いている。
1年の8月に終戦、学校の雰囲気も全く変わって、あの上級生の恐怖から解放され、のびのびしてきた証なのでしょう。
 しかし、このあたりから、確かに勉強から遠ざかったのです。そんな感じが出ています。2年の途中から、安足間からの汽車通になり、今考えると大変な通学でした。
 
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永山農業学校へ入学

2005-07-17 21:44:34 | 思い出 1 生い立ち、
 小学6年の時、父に「幼年学校へ行くかな」といったら、「お前は師範学校へ行きなさい、師範学校を卒業して兵隊に行ったら将校になれるから」といわれて、その気になった。そして昭和20年2月旭川師範学校の予科を受験した。何と不合格であった。之はショックだった。
 
 後、受験できるのが、農業学校と工業学校、商業学校だった。父に永山農業を受けなさいといわれて、もおどこでもよかった、とにかく受けた。無事合格した。 嬉しかった。 
 
 当時、農業学校でも序列があって、空農(岩見沢農業)、永農(永山農業)、勝農(帯広農業)、名農(名寄農業)、の順になっていた。全道から集まるのだが、農家の出でない、私みたいのが結構多かった。

 入学して、寮(敬忠寮という寮)に入ったのだが、このときの思い出は多い。この写真の戦闘帽の白線は、この年卒業した、東雲の先輩、男沢良吉さんに貰ったもので、一年生には不似合いのものだった。それが原因で後で先輩に叱られることになる。
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小学校時代の思い出 東雲 水槽の山

2005-07-16 21:57:34 | 思い出 1 生い立ち、
「水槽の山」これは、東雲にあった安足間発電所の水槽(水力発電の水が、此処でいったん堰き止められ、2本の導水管に送られ下の発電所の発電機を回すことになる)の設備がある山なので、此処に住む者は、このように呼んでいたのです。ここは、東雲の子供たちの格好の遊び場で、特に冬はスキー場として使われました。この一枚の写真は、何年生の時かよく覚えていないのですが、男3人の真ん中が私です。ストックが長いのは、自分用が無くて、親父のストックを使っていたからなのです。真ん中にいるのが吉田鉄郎先生で、この先生が詩吟などを聞かせてくれて、それが私の詩吟のルーツでも有ります。私と先生の間の方が多分男沢良吉さんで、大変頭のよい先輩で、東雲小学校から初めて上級学校(永山農業)へ進んだ方です。こんな姿でスキーをしていたのです。
 
 男沢さんのお父さんは、発電所の職員で、発電所の職員住宅に住んでいて、この発電所職員が東雲のインテリー集団でも有りまして、いろいろなことで、私たちにも大きな影響を与えてくれたのでした。
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