大学時代、もう少し何か一科目でも真剣に勉強して置けばよかったのにと悔やむ。なんとか単位を揃えることはしたけれど、これを勉強したなどと大きな顔をできるようなことはない。それでも卒業の時、ゼミの山本教授から推薦されて高等学校の先生になれたのはラッキーだった。
大学の勉強より、の青年団でリーダーシップを発揮していたことの方が楽しかった。
私の生活信条は「和して同ぜず」だった。自分の意見は言うけれど、無理に通すことはしない、しかし、相手の言うことを聞いても、自分の信条に反することは、ほどほどの協力にして済ませた。ずるいといえばずるい生き方なのだが、自分の信念もないままに随っているのはできなかった。
世間には、極端な表現をすれば、左派的とか右派的に分けられるような勢力分野がありそれぞれのりーダーのような方がいた。そんな中でいえぱ私は中道派に属するのかもしれなかった。その中間的な位置でリーダーにさせられるとが多かった。とりわけ美唄東高校に転勤になったとき、高教組の活動に引き込まれ、二年目に学校班長に担ぎ出され三年目には美唄支部支部長に担ぎ出され、10,21のリーダーとならなければならなかった。しかし、これは私が中道であることを利用して、左傾の強い高教組をもう少し柔らかな方向に方向転換させようとする、たくらみだったことを後で知った。このころ、一月に一度くらいの間隔で同僚の心の通じる仲間を私の家に集めて教育のあり方について話し合う会・・・村川学級・・を数年持っていました。この仲間も二つに分かれました。心情の違いです。二つに分かれてもに憎み合うことはありませんでした。むしろ何もしない方たちとは違う仲間意識で付き合うことができました。
詩吟も美唄東で始めたのですが、一番下手な私が会長にさせられました。その詩吟のおかけで私の退職後の後半生を本当に充実したものにすることができ、1999年度の札幌市市民表彰で社会福祉功労者賞を戴くことができたのです。これは晴れがましい第一のものかもしれません。