昨日書いた通り、5月の末に群馬県へ移転します。 それで、必要のないものの整理を始めていました。そこできれいな巻物の書面を見つけました。何と私に対する「感謝状」だったのです。すっかり忘れていましたが、読み直してみたらとても素晴らしい書面でしたので紹介させてください。 書面「 感謝状 サムエル・ウルマン作 「青春」 『六〇歳であろうと一六歳であろうと、人の胸には驚異に魅かれる心,おさない児童のような、未知への探究心、人生への興味の歓喜がある 君にも吾にも、見えざる駅逓が心にある 人から 神から、美、希望、喜び、勇気、力の霊感を受ける限り君は若い 』
まさに先生のことを詩っているような詩だと思います。私たちは殆どみな、詩吟の何たるかも知りませんでした。先生の導きをひたすらたよりに「詩吟の世界」に足を踏み入れました。少々知ってみると、「雄大にして幽遠」なる世界でもあるのだな…と思います。もしかして迷子になるかも。
私たちは煩雑な日常性を離れ一時吟詠に心身ゆだね,又、吟友と語らい興じ合うのも素敵なことだと思います。
吟にしても、語らいにしても「この場」が用意されているからできる幸せ、先生がいらっしゃらなければこの場は存在しませんでした。先生、ありがとうございました。箸にも棒にもかからないような私たちに興味を持ってくださって、忍耐強く教え導いてくださいましたこと感謝に堪えません。重ねて、先生ありがとうございました。
私たち、結構くせ者揃いの顔々ですが、いつもウルマンの「青春」を地でいっているような先生ならば、必ずやいつの日か、私たちを「平和郷」の吟遊詩人に育ててくださると信じています。
感謝状がお願い状になりましたが型破りの私たちらしいと御受容下さい。
先生の第二の人生も,花あるステージであることを平和吟友会員一同心から祈っています。
平成三年四月二十七日 平和吟友会 文責 加藤シズエ 畑島弘子
日付からすると、退職祝いをしてくださり、この巻物を読み上げてくれたのだと思います。懐かしい名前、顔を直ぐ思いだします。
本日で詩吟の会から離れることになりました。92歳の今までかくあるのも詩吟のおかげかも知れません。吟道58年でした。
昨日久しぶりにブログを書いた。その中で、私の詩吟教室(碌峭会)に特別会員が数名いることを書きまし
2011年に老人福祉センターの詩吟講座の講師をやめることにしたことを昨日書きましたが、教室を離れてからこの講座に参加してくれていたのですが、講座の終了で、教室の方へ特別会員としてお出でになることになった方が㈹一号の特別会員です。その後、手稲のある女性の先生の詩吟の会が解散されました。その中のお一人、北詩連の吟匠を取得されていた男性の方が、これで詩吟を止めるとおっしゃっていることを聞き、特別会員として碌峭会で続けないか誘ってみましたら喜んで会韋となってくださいました。お二人の特別会員ができていたのですが、昨年の11月に、突然電話が入って私の最後の職場S高校の同僚だったK氏が、手稲の私の会を見学に行きたいということでした。結果見学からすぐに入会ということになりました。詩吟は私が現役の時、同僚の先生数名を誘って、詩吟の会をつくり、西区西町のT先生宅で、当時所属していた 象堂流の宗家に月一度来て稽古をつけていただく会を作ったのですがその嵬らに暫くお出でになり一定の資格まで取っておられた方です。(猶、私は私の会の20周年記念大会を機に 象堂流を退会して、今の碌峭会を立ち上げ、北詩連にお弟子さんを連れて加盟して現在に至っています。それにはそれなりの事情があるのですがそれは省きます)お住まいが西区福井ですので、遠いのですが詩吟をつづけたいといってお入りになられました。とても素晴らしい方がお入りになりうれしく思っていましたら、その方が声をかけて、20年前に私の会をおやめになった方を連れてこられました。この方は西区平和の方です。そんな遠いところから特別会員として入水してくれているのです。
焚かず詩吟、されど詩吟。詩吟にはやはり詩吟としての、楽しさ、面白さ、素晴らしさがあるのですね。
長いことブログを書かないできました。
2019年の12月に重度の肺炎で3週間ほど入院をして、それが契機で28年間務めていた手稲老人福祉センターの詩吟講座の講師を引退したのでした。丁度11月に札幌市から社会教育功労者表彰を受賞した直後でしたからとても良いタイミングで大きな区切りをつけることができたのでした。退院して2月から一つの児っていた教室、碌峭会手稲を少ない人数だけれど教えてゆこうと張り切っていたのですが、二月第一週の月曜日無事終了し、これからと思ったのにここから新型コロナの蔓延防止緊急措置で区民センターの教室が使用できなくなり、休まざるを得ない時期がしばらく続いたりした。でも、6月湖からはほとんど継続することができるようになった。
私の詩吟の教室は、詩吟の資格審査和を受審する正会員と、詩吟の教室はやめたけれど詩吟を楽しみたいという方を特別会員として受け入れています。現在北詩連に席を置く正会員が私を入れて8名、それに特別会員4名の12名の会となり、とても楽しい教室になっています、
コロナ問題が出てから教室を維持できなくなったところも多いのですが、私の会は会員が増えています。残念なのは、北詩連としての大会などが開催できなくなっていることです。北詩連の大会に特別会員は参加で来ませんが、手稲の文化協会の行事には一緒に参加させることがいてきます。
コロナ問題が出てからは、街に出ての社交会に出ることができなくなり、声を出いこともないものですからすっり声帯も痩せてまともな詩吟はできなくなりましたが、それでも生徒さんたちはみんな付いてきてくれます。
しかし。92歳の年齢。間もなく無理になるのです。>
昨日書けなかった。何せ寒いので、二階に上がって部屋を暖めることが面倒でプログもめっきり書いていない。
昨日の教室は、欠席が体調を壊している新人のIさんだけ。でもとてもうれしかったのは、市橋さんが尋ねてきてくれたのです。年賀状を呉れて、個人会員として登録しているけれど、寂しいといったことがかかれていたので、月曜日うまく休みが合えば手稲に遊びにいらっしゃいと話してあげていた。丁度昨日の月曜日、休みになったのできてみました。ということでした。碌峭会の生え抜きの方なのですが、勤務先で教室を立ち上げて張り切っておられたものの、お弟子さんが三人いたのですけれど皆様脱落してしまい。教室を閉鎖し、自分は個人会員として北詩連に残ったのです。本当は、私のところに籍を置いて碌峭会員として登録しておけばよかったのですが、相談がなかったので、思うとおりにさせてあげていました。来年度は所属を碌峭会とするようにさせてあげようと思います。教室の会員でなくても、碌峭会所属としておいて、何かの時は騄象会の一員として出演するのが正しいのでしよう。
今のコロナ問題で稽古もろくにできないような時、昨日の教室は9名でした。こんな形で稽古ができている会はほかにあまりないと思います。とても張りのある詩吟の教室らして教室でした。
私も数え歳でいうと93歳になるのです。もう限界ですが、みんな付いてきてくれるのはうれしいことです。この二年間は大きな大会がすべて中止になってきています。今年はどうなるのでしようか。心配ですが、どうしようもありません。その前に教室の引継ぎの準備を急がなければならないのです。困ります。
詩吟をやっていることを忘れさせるような月日でした。今年になって初めての教室でした。10日が祝日と北詩連の初吟会が重なっていて休みになりましたからなおさら長く感じたのだと思います。
北詩連の初吟会は、コロナのおかげで中止になったのだそうです。またまた蔓延防止の緊急事態が来るのでしょうか。ほどほどに収まってほしい。
教室、IさんとKAさんが休み。最初の稽古のSさんの吟譜で、譜の音程について説明してあげました。でも一般論的な話と細切れ的な説明だけではどれだけみんなのものになったかは分からない。時間をかけてゆっくり各自に個別指導的にやればいいのでしょうが時間がありません。一通り審査待ちの方の稽古が終わってから、四名の方にすぐ前で稽古をした準9段の詩文の中二題を選んで吟じてもらいました。そこまでで、ほぼ時間が来ていましたが、5分ほど休みを入れて、文化協会が予定していた文化の集いに出吟する予定だった「丹頂の舞」を全員に 独吟してもらい最後全員で 合吟して終わりにしました。文化協会の文化の集いも中止になるのがほぼ間違いないようです。又教室が駄目になったらたまらない。
五日の日曜日、教育文化協会で北詩連札幌西支部当番の資格審査会があった。碌峭会から4名受審しました。
新型コロナの蔓延防止で会場の使用が厳しく制限されていて、応援見学者はお断り、参加者は事前問診票を提出して受審することになっていた。
私は御弟子さんの応援に行きたかったのだけれど、先週から体調を崩していて、歩くことや体に力を加えることが厳しくなっていて、行くに行けない状態だったから諦めるには
丁度良かった。今日審査部長から電話があり、私のお弟子さんの成績を教えていただいた。残念ながら短縮合格が一人もいなかった。期待していた人がいるのだけれど駄目だったようです。
多分、どこかで思わぬ失敗をしてしまったのだと思います。
私の体調、一寸ひどい。体中に疲労が蓄積したような感じで、高揚感が全くでない。寝付くことができない。ひどく落ち込んだままで頑張っています。何もしないのが一番つらいみたい。できるだけ体を動かす努力
をするべきなのだと思いますが、それがつらくて苦しんでいます。長く頑張ることは無理かもしれないけれど、ブログを書いていると辛さを忘れている。
何か病気が忍び寄っているのかもしないけれど、見当がつかない。
お二人が欠席でした。久しぶりでSさんが出席してくれたのでうれしかった。初めに手稲文化協会からの案内「チャリティ文化の集い」について了解をいただきました。男性3名の連吟、女性5名の合吟、二題の参加としました。
次の稽古日に吟題を決めていくことにしました。
男性の連吟は杜甫の「春望」か、河野天籟の「大楠公」にしようと思っています。女性は頼山陽の「本能寺」をやってみようかと思います。
稽古に入って、Sさんの吟の折、吟譜について質問をしながら説明をしてあげました。過去に何度も触れていることですが、ほとんどの方は忘れています。何度も聞かせる中で理解してもらうしかありません。
審査前最後の稽古でした。Sさんの短縮を期待したい。審査に関係のない4名の方には前回同様「問梅閣」と「彰義隊」をやってもらいました。
最後は新しい吟「冬の月」を全員にやってもらって終わりました。
昨年から新型コロナの蔓延で、文化協会の活動もできないまま来た。それでもようやく、一定の落ち着きが見えて、いろいろの行事も控えめではあるが開催され始めた。
手稲文化協会も、来年2月27日にも「文化の集い」を開催することとし、その案内が来た。
一度に舞台へ上がれるのは5人までだという。そうすると、全員での 合吟はだめです。 折角だから、男性三人で律詩一題の連吟をやってもらい、女性は5人で 合吟一題をやってもらうことで進めようと思う。
何か舞台に上がる機会が失われ、寂しい思いをしていたのですが、ようやくめどがついてきた。是非このまま全開になるように祈りたい。
昨日、西陵高校の同僚だった加藤先生から電話が来た。選挙でのお礼電話と思っていたら、その時詩吟について、まだやって見たい気持ちがあるという
事を言っておられた。 象堂流の詩吟を私が誘って、私が立ち上げ友成先生宅で始めた会で一緒に宗家の指導を受けていました。
この会を葳松会(いしょうかい)という難しい名前にしたのですが、これは西陵高校の希章が松の葉なので葉が茂る意味と会の繁栄をかけてつけたのですか
評判は悪かった。この会で師範、名誉師範までの資格をいただき、吟歴20年の年に象堂流を退会して現在の碌峭会を発足させたのでした。私は碌峭会を立ち上げげた時葳松会
も当然退会としました。その後 象堂流は急激に会員を減少させ、その存在感さへ分からなくなるような状況でしたが、友成宅で葳松会という名前を変えて、私の平和教場を退会した遠藤さんと
特に友成さんの奥さんの指導を受けながら楽しんでおられたようなのです。その加藤先生が月曜日に教室を見学にいらっしゃるというのです。素晴らしい声の持ち主ですし、
頑張って資格を照り、学会の幹部なのだから、会員に詩吟を広めていただけると嬉しいのだけれど・・・そうはいかないのでしょう(ztdetyd@kteidjdq >
気が付けば、11月今年もあとが少ない。これを考える時は、はやいなー!!と月日の過ぎる速さを思う。
だけど、此のコロナ病魔の蔓延以来、家の中に居るしかない。さらに、古傷が右足大腿骨関節痛となって現れ苦しめられている。
歳は91歳。それでなくても弱っている身体です、それにこの病。嫌でも一日活動することができないまま過ごします。
一日の長いこと、歳月の流れ㋸速さを嘆きながら、一日の長さに苦しむ。変な生活・・・
コロナが無ければ、昼カラも楽しみ、結構動く機会が多かったはずで、こんな古傷も出合わずに済んだと思う。
死ぬ暇もないねといわれるくらい忙しかった時代もあったのに、仕事はだんだんはぎ取られ、することもなくなる辛さ。
そんな、状況で、ようやく再開できた詩吟の教室は私の救いです。体力が無くなり、肺気腫も進んでいますから声が続かない。
でも、生徒さんたちは元気を呉れます。二人欠席で7人の稽古になりました。教室に行くと譜面台が出されている。来月が審査なので
審査の稽古に入る準備なのです。でも譜面台を使うのは今日は最後に一題だけやることにして、受審申込をしてある4人の稽古は
前奏だけで稽古をさせ、審査に関係のない3名には今月の稽古として師範吟題のその二「問梅閣 高啓」「彰義隊 向山黄村」和歌
「かくすればかくなるものと・・・吉田松陰」を稽古してもらいました。そのあと、受審者の4名にそれぞれ最初の一吟を譜面台の前で
やらせました。そのあと5分休憩を入れて「秋尽く 館 柳湾」を全員にやってもらい終わりました。
今日は、第五会議室が取れなくて視聴覚室の稽古になっていました。一番詩吟に向かない部屋なのです。響かないから辛いのです。
おまけに寒くて、参りました。暖房来週からは入るらしいのですが、特にコロナの心配で空気の入れ替えで窓を開けますので
なおさら寒いのです。凍えた声でやってきました。