西郷隆盛と僧月照の錦江湾身投げ事件を知っている人は多いと思います。安政の大獄で勤皇僧月照にも危険が迫ったとき、西郷は、月照を薩摩藩に庇護してもらうため、月照を連れて京を脱出した。しかし、薩摩は久光公の時代になっていて、直接連れて帰国しても庇護される保証がありません。それで月照を筑前博多の同志の家にあづけ、一人薩摩に帰り月照の保護をしてもらうべく運動をしていました。一方、西郷と月照の後を追って幕府の手が迫っていることがわかり、一刻も早く薩摩に送りたいと考えているときに、平野國臣が同志のうちを尋ねてきました。すぐに國臣に薩摩へ月照を連れて行ってほしいと頼みます。即座にそれを引き受け、途中山伏の姿に変装して薩摩への関所を通ろうとしたけれど、許されず夜陰に漁師の小舟で海から薩摩に入ります。そして西郷とともに薩摩藩に庇護を申し入れたが許されず、逆に月照を日向へ追放せよとの命令が出されます。月照と西郷を乗せた船には國臣も同乗していたのです。日向に向かっているけれど、その途中で月照を斬ることが命令なのです。西郷にそれができるわけかなく共に死ぬことを選び、あい携えて冬の錦江湾に投身したのです。その水音を聞いた國臣がすぐ舟を止めさせ引き返し探したところ、二人が浮き上がったのを見つけすぐに救い上げ、浜に船をつけて蘇生の術を施したところ、若い西郷は息を吹き返したけれど、月照は帰らぬ身となったのでした。
この後、西郷は月照と一緒に死んだと幕府には報告をし、奄美大島へ名前を変えて送られたのです。
一方國臣は薩摩から追放されます。この時の薩摩の仕打ちを嘆いたのがこの歌でした。この事件から平野と西郷の交流が始まるのです。
平野は、この後、尊王討幕の活動を展開し、8月18日の政変で、先行した天誅組を引き留めに向かいますが、間に合わず引き換えし、その後生野の変を起こし捕えられ獄舎にいる時に大火が起こり、獄中のものとともに切られることになったのです。
平野は歌人としてもすぐれた才能の持ち主でしたが、笛の名手でもあったといわれます。