手稲は最高!

手稲在住30年、手稲って本当にいいなって常々思っています。時に触れ、折に付け思いついた事を、取り留めなく書いてみます。

「北に夢を追ったサムライ」 時を越えて、鳴り止まぬ響き!

2005-09-28 20:34:02 | 随筆「残響」
 田中和夫原作「残響」の演劇が9月23日生涯学習センター「ちえりあ」で開演された。その題名が「北に‥‥」です。
 
 その演劇のポスターがまたとてもいいのです。A2に伸ばしたのを頂いてきた。残響の麦酒醸造所開業式の写真を合成したもので、とても気にいったので、部屋に貼った。
 
 演劇も、あれだけのキャスト・スタッフでよくまとめたものだと感心した。脚本も仕上げるのに大変だったと思う。いい脚色だった。

 私のブログにコメントバックが入り、吉村さんが胸像の隣に立った写真が添えられていた。この写真もいい写真だった。吉村さんには最高の贈り物かもしれない。

 そうなのです、吉村さんがいて、この胸像はここに在るのです。吉村さん、ご苦労さんでした。また、「いの平」でいつかお会いできればと思っています。

  緑樹背に知事公館の庭に立つ村橋の胸像鳴り止まぬ響き
 
  知事公館緑樹背にして凛と立つ残響の胸像村橋の視線
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「残響」その言葉の響き?

2005-09-26 21:38:43 | 随筆「残響」
 「残響」 "ざんきょう" 凄くいい響きの言葉です。残る響き  余韻といえるのでしょうか。余韻が聞こえる。
 村橋久成の「残響」とは、どのように理解したらよいのでしょう。村橋の出奔前の活躍、そして、行路病者として死んでいった死に様。
 生前の華々しい活躍の場面、そして、その最後。その落差には、尋常では図れない大きなものが感じられる。その大きなもの、それが響きなのでしょう。
 胸像「残響」の、久成の鋭い眼差し、あれは何を射抜く眼光なのか。今、一様に官財癒着に抗議して身分を棄てたと評価されている。しかし、職を辞するだけでなく、世までも棄てたのです。生きて抗議する道は無かったのか。
 官を辞しても、生活に困る身分ではなかった。辞表を叩きつけるというだけで自分の気持ちを納得させることが出来なかった。のうのうと生きて、政府の要人たちが、自分の同志と思っていた者たちが、我が物顔に幅を利かせている姿を黙って見ている気持ちにはなれなかったのでしょう。この怒りを静めるのは、一切の煩悩を断ち切る仏の道しかないのでしょう。結局、自分が自分と戦うしかなかった。寺に入ることすら許されない戦いだったのだと思う。
 そのように、考えてみると、あの北海道産業の育成に掛けた、村橋の情念は、一官吏の仕事の域をはるかに超えたものだったのだと思う。それ故許せなかったし、そこに流れ、残る村橋の情念、ひれこそが「残響」なのかもしれない。村橋の悔しさとか、怒りとかということばでは表現できない、もっと深いものがあると思う。 あの残響の像の眼差し、あれは、北海道に命を捧げ、北海道の未来を見据える気迫の眼差しでは無いでしょうか。   
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「麦とホップを整すればビイルといふ酒になる」久成、  「残響」祝賀会  

2005-09-25 20:05:22 | 随筆「残響」
 午前の除幕式、そして午後からの記念演劇鑑賞、そして祝賀会場の札幌ビール園到着は16時30分、一番乗りで会場に入った。
 多分、17時には開宴されるかと思っていた。17時頃テーブルに乾杯用ですといって「開拓使麦酒」瓶、500ml入りが一人1本置かれた。そのころ祝賀会次第を見つけ出し、「乾杯は17時50分になっています」という。え!まだ50分も待つの?となる。
 もう、席についてから30分もたっている。目の前のビールは毒です。終に、誰かが、ビールに手をつける。皆様へ注いでくれる。「はい、そっと乾杯」、席の6人が静かに、喉を鳴らす。隣の仲間も続く。たちまち5本が空いたけれど、1本だけあけないで置いていた。従業員が、小さな声で、それ乾杯用ですからという、「大丈夫、1本残して有りますから」とかといつて、あとはゆっくり飲みながらいたら、ちゃんとまた従業員が5本ほどもつてきて黙って置いてゆく。見たらどのテーブルも、ちゃんと始めていました。
 
 17時30分に、祝賀会が開式となり、17時50分に乾杯となった。食べ放題、飲み放題、酒もワインから焼酎、酒までといろいろ有る。私はビールだけで通した。ワインが1杯つがれたけれど、一口、口をつけただけにした。
 後で知った人だけれど「開拓使麦酒」は、村橋久成がクローズアップされて、昨年から、札幌ビールが新たに製造することと成り、ビール園だけでの限定販売にしているとか、今、買ってきて飲めないビールを随分飲ませてもらいました。
 「麦とホップを整すればビイルといふ酒になる」と、札幌ビール醸造所の開業式に積み上げたビール樽に、久なりが大書した、あのビールの味が之だったのだろうか、、、、、
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村橋久成胸像「残響」建立除幕式に出席

2005-09-24 21:36:54 | 随筆「残響」
 知事公館の正面入り口の通路、左側、緑樹を背に、その像は建てられた。折からの小雨、でも、100数十人の見守る中で、関係者の手により除幕された。
 田中和夫先生が、「残響」を自費出版されてから25年目にして、この胸像が、ここ北海道のそれも知事公館の庭に移設されたのです。
 田中先生が、小説「残響」を出版した時を同じくして、村橋の故郷鹿児島では、鹿児島大学教授日本芸術院会員中村晋也氏が「若き薩摩の群像」という、若者の群像を彫刻されていた。これは明治維新、薩摩藩からイギリスに留学生として派遣された17名の若者の群像です。その中に村橋もいたのです。
 そんな中で「残響」を通し、村橋の活躍、そしてその壮絶な最後を中村先生は知るのです。そして、田中先生との交友も深まっていくのです。また、残響によって鹿児島で、村橋久成の存在がクローズアップされ、終に鹿児島久成会が出来るのです。

 田中先生は、北大図書館で、村橋の写真を見つけます。それを中村先生が受け取り、その写真に感動して、すぐにその胸像の製作に入ったとのことです。そして出来上がった胸像の銘を「残響」としたのは言うまでも無く、この小説の題名からなのです。
 この胸像は中村先生の美術館に展示していたのですが、その胸像を北海道に移設したいとう、運動が始まり、この期成会の事務局長をなさった吉村百一さんが中村先生を尋ね、この像の寄贈をお願いしたところ、先生もこの像は北海道に置くべきと思っていらっしゃって、快く承諾されたとのことです。

 そしてこの移設運動の、切り札となったのが、新知事高橋さんの施政方針演説だったようです。この演説の最後を、東京でのビール醸造所建設計画を覆し、札幌にビール工場を建設させた村橋の高い志と果敢な挑戦を、自身に重ねて話されたことだったのです。
 高橋知事は、この移設計画に直ちに賛同し、建設場所も知事公館の庭と決めてくれてのです。
 
 除幕式の後、この残響を原作とした演劇「北に夢を追ったサムライ」を観賞し、札幌ビール園での祝賀会に出させていただき、おいしいビールを、とてもおいしく飲ませてもらいました。
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村橋久成胸像「残響」建立除幕式の案内届く

2005-07-28 21:18:03 | 随筆「残響」
 以前、偶然「いの平」で「残響」の作者、田中さんとお会いして、胸像の移設期成会の話を聞き、ささやかな協賛金を贈らせていただいていたのですが、昨日、全く思いもかけず"「残響」建立記念行事への案内状(写真)が届いた。
 写真の下の部分の文字が読めないと思いますので書いてみます。
    村橋久成胸像(1842~1892)
    (開拓使麦酒醸造所創設の功労者)
 かって‥‥一人の男の強い意志が北の地に熱き命を吹き込んだ
       そして今‥‥その残響が鳴り響く

 9月23日 知事公館前庭で除幕式があり、その後「ちえりあ」で記念演劇の公演が有り、17時30分からサッポロビール園で祝賀会があるという。

 出席させていただいてよいか判らないけれど、当日は祝日で詩吟の教室も休みなので、出席させていただくことにして返信を出した。
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「残響」  東先生の声無き声に私は応える

2005-03-06 22:20:45 | 随筆「残響」
「残響」の作者田中さんに会った日、3月2日、後で判ったことなのだが、その日に東先生が他界されたのでした。この田中さんと事務局長の芳村さんは、岩見沢に国鉄の関係でいたことが有り、その時同席していた俵氏も岩見沢機関区に勤務したことが有り、くしくも岩見沢でつながった。そればかりではなく、私が詩吟をやっているというと、牛崎さんを知っていますかと聞かれた。この牛崎先生は私の二人目の詩吟の先生だったのです。そして、この牛崎先生とこの日亡くなられた東先生は詩吟の兄弟弟子で、牛崎先生の力強い吟と東先生の大らかな吟風が、連吟をすると不思議にマッチしていい感じになるのでした。東先生が仕事の関係で指導が出来なくなり、その後を託したのが牛崎先生だったのです。更に芳村さんは、詩吟を笠原先生のところに習いに行ったのだというのです。ただ1日で止めたのだそうですが、この笠原先生は、豊泉流から恵山流日本吟道会を立ち上げた時の指導的立場の人で、会長となった人なのです。
 
 笠原先生、牛崎先生それに吉岡先生、和泉先生の四人が佐々木象堂さんと対立して、北海道詩吟連盟に移られたのですが、東先生は、親友、同志がそのようにして去っていく中、宗家を守ってきたのです。その東先生を干しあげるような仕打ちをしてきた宗家、だから私も象堂流から脱会する事にしたのです。そして私も今北海道詩吟連盟に加盟することがきまったばかりなのです。このことを報告するはずの東先生の亡くなった日に、初めて会った田中さん、芳村さんと私の詩吟の歴史で忘れることのない方々の話をしたというのも不思議な気がします。

 私は東先生の「残響」 声無き声を聞きながら、襟を正して行かなければと思う。
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久しぶりの「いの平」、 「残響」 作者田中和夫さんに会う

2005-03-03 16:21:56 | 随筆「残響」
 久しぶりの「いの平」、話して、歌って俵氏の帰る十時の10分ほど前、二人の男の方が入ってこられた。後で判りましたが、とても温厚そうな方が、実は小説「残響」の作者、田中和夫氏で、もう一方は、「残響」の胸像設立期成会の事務局長芳村百一さんでした。チエリアで講演会を終えての帰りということでした。

 「残響」、この小説をお読みの方もいられるかと思いますが、北海道開拓の歴史の一ページを飾るはずの村橋久成(薩摩藩出身で、札幌ビールの創立者)が、歴史の底に埋もれていたのを掘り出し、歴史の前面に導きだした小説なのです。この「残響」を読んだ、中村晋也さん(鹿児島大学名誉教授、日本芸術院会員、日本彫刻会理事長)が、田中さんが小説で村橋久成を残したのなら、私は彫刻で残すといって、村橋の胸像を作製し、鹿児島の中村晋也美術館に展示していました。その胸像を札幌に移設しょうという運動が起きているのだそうです。

 詳しいことは、私のHPの方に書いてみたいと思いますが、とにかく驚いた。私は「残響」の書名と北海道開拓にかかわる内容の小説とはわかっていましたが、読んでいませんし、その作者が手稲の人だとは全く思ってもいなかったのです。

 作者の田中さんは旧国鉄の車掌さんで、村橋久成の壮絶な最後を知り、資料を求め歩き、ついにこの小説を物にされたのだそうです。現在は北海道文学館評議員をなさっています。

 たまたま、1か月ぶりで行った「いの平」、こんな出会いが待っていた。やっぱり「いの平」は素晴らしい。
 
 
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