小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

=「大人の流儀」を読む=

2011年07月16日 | 書評・絵本

ふと、読み終わってから、カバーを見ると、a genuine way of life by Ijuin Shizukaと小さい文字で、書かれている。直訳すれば、見せかけでない誠実な人生、とでも、訳されようか、それとも、日本語の訳を、英訳したものなのか?一体どちらだろうかと、思わず、考えてしまった。昔の武士は、元服という儀式で、死に方の作法を、体現させて、武士になる、一人前の武士になるという自覚を持たせたが、今日、成長障害を伴った多くの大人達が、存在するが故に、私も含めて、こうした読者達が、改めて、「大人」とは、なんぞやを、再考するきっかけにしたものなのか?成人するということは、最近では、前倒しで、18歳ではどうかという議論もあるが、むろん、法的には、20歳で、成人扱いだろうが、どう見ても、誰も、大人だとは、思われない大人が、多い。もっとも、我々世代も、その昔は、新人類だの、ビートルズ世代等と、揶揄され続けてきたが、、、、、。一体、「大人」とは、「見せかけでない誠実な人生」とは、何であろうか?結婚し、子供を持ち、親になり、育てて、成人させ、、、、そういうことなのか、自己責任を負えることなのか、品格とは何かが、体現できるようになることなのか、「五風十雨」の生活の意味が納得できることなのか、生きると言うことが、何の特別な意味がないことを分かっても、それでも、生き続けることなのか、哀しみにも終わりがあることを、分かるようになることか、人生は、理不尽で、不条理だなと納得できることか、打算に、陥ってしまったことを自覚することか、冠婚葬祭、墓参りの作法が、分かることか、身だしなみが何たることかを分かることか、人には、色々事情があることを初めて理解出来るようになることか、愛する人の死を前にして、本当に、途方に暮れると言うことを実感できることか、人生には、運・不運があると言うことが、自然に、実感出来ることか、大人の酒を酌み交わせるようになることか、読めば読み進むほどに、自戒と自問自答が、頭の中で、渦を巻いてくる。


=「スポーツのチカラ」=なでしこジャパンに透けて見えるもの

2011年07月15日 | 社会戯評

今の若い人達は、知らないかも知れないが、「フジヤマのトビウオ:水泳の古橋廣之進」「世界卓球選手権王者:荻村伊知朗」「プロレスの力道山」「フライ級世界チャンピオン:白井義男」など、戦後の混乱期に、スポーツのチカラで、ズタズタに、引き裂かれた日本人のプライドを、世界に、高らかに、その復興を印象づけたことは、私の子供心にも、しっかりと記憶されている。ナチスのゲッベルツが企図した国威発揚のベルリン・オリンピックや、戦後復興の象徴としての東京オリンピックや、或いは、米国駐在時代に、見たロスアンゼルス・オリンピックの商業主義への傾注など、おおよそ、国威発揚や、ファナティックな民族主義には、どうも、高校野球も含めて、好きにはなれない。「USA,USA,」という蝉の鳴き声に似た応援も、又、「ニッポン、チャチャチャ」という声援にも、どうも、なじめない。ワールド・ベースボール・クラシックの優勝も、チームや選手が称えられこそすれ、国が、何も、偉いわけではなかろうにとも思う。なでしこジャパンの決勝進出も、確かに、海外で、活躍している選手の技量に、裏打ちされたもので、これは、スポーツ全般に、言えることだが、今や、「グローバル・コンペティション」を抜きには、ゴルフも、テニスも、野球も、柔道も、相撲ですら、その存在意義は、語れない。逆説的に言えば、なでしこジャパンの活躍は、混迷する政治と経済、震災からの復興と円高・デフレ状況からの脱却とを、「スポーツのチカラ」を通じて、国威発揚とまではゆかぬが、同時に、おしすすめられないかという為政者の魂胆をそこに、透けて見えてしまうのは、穿った見方か(?)やたら、「元気を貰った」とかいうコメントは、迷惑千万である。今や、この国は、その裏側で、世界的な地位の低下は、否めないのだろうか?


=歩行弱者の視点=

2011年07月14日 | 社会戯評
下りのエレベーターが、来たので、乗り込もうとすると、「すみません、扉を開けておいてください」というか細い声で、初老のご婦人が、杖をついて、とぼとぼと、すり足で、乗り込んできた。聞くところによれば、足が不自由で、一人では、エレベーターの扉が、早く、しまってしまい、他の人が、一緒に、乗り込むのを待っていたらしい。横断歩道の信号も、途中で、赤になってしまうので、わざわざ、バスで、自宅の付近の停留所まで、大廻りするらしい。確かに、エレベーターによっては、開閉時間の延長ボタンが、ついているものがあるが、大概、気が短い私は、閉まる方を、すぐに押してしまいがちである。時間を少し、ずらして、街を歩くと、存外、杖をついて歩く人達が、老若男女を問わず、多いことに、驚かされる。心なしか、歩くスピード・テンポとも、ラッシュ時とは、大幅に、異なるものである。脊柱管狭窄症の悪化で、やや、歩行に、不安が出てきた私も、弱者の視点で、近々、社会と向き合わねばならなくなるのであろうか?


=「しあわせ」の準備=

2011年07月13日 | 映画・テレビ批評

出勤時間が少し、遅めになった為に、余り関心のなかったNHKの連続朝ドラを、朝食時に、見るように、なった。「おひさま」の中に、何とも、さわやかな、美しい日本語を、見いだした。「幸せの準備」である。何か、終戦後の人々の希望に満ちあふれた将来への期待、力強い確信、そして、それに向けての日々の暮らしの充実感、(物不足や、貧乏ではあるが、、、)そういったものが、伝わってくる「言葉の力」、「想像力」を、テレビの画面に、久しぶりに、この言葉から、自然と、感じられた。昨今では、将来に不安を持ち、結婚にも、慎重になり、先延ばしをする若い人達が、増えているが、そんな時に、姪から、嬉しい「第一子懐妊」のメールを貰った。来年1月初めの出産予定日だそうである。しっかりと、「しあわせ」の準備を、整えてもらいものである。


=シエスタとバカンスとティー・ブレイク=

2011年07月12日 | 社会戯評
もう今から、30数余年の前になるだろうか?メキシコに、商用で、行った時に、オフィスの奥から、何やら、風呂上がりのような気持ちよさそうな、さっぱりした顔立ちで、社長が、出てきたのが、シエスタとの最初の出会いだった。(最近では、昼休み、学校でも、15分程度の午睡を奨励している学校もあるようであるが、、、、)アポイントメントは、1日当たり2件程度までと、言われて、初め、何を、のんびりとしたことを、、、、と思っていたが、成程、午後1時から、4時まで、シエスタでは、これも、やむを得ないかと、変に納得したものである。フランスのボルドー・ワインを輸入していたとき、6月になると、決まって、ワイン・メーカーから、7月から、8月にかけて、恒例のバカンスなので、早めに、発注をくださいねという極めて慇懃無礼な(?)手紙を、夏前に、もらう度に、未だ、週休2日ではない時代だったからなのか(?)だから、フランス人は、駄目なんだと、うらやましい反面、若気の至りで、そう感じたものである。リンゴ・ジュースのプロジェクトのために、ニュージーランドの南の端の小さな街に、滞在していたときに、午前中の仕事が、佳境に、入ってくると、10時頃には、イングリッシュ・ティーとビスケットのティー・ブレークが、始まる。何とも、優雅だと、その当時、思った。もう、この頃になると、怒りを通り過ぎていたものだ。日本人は、勤勉であれと、親の背中を見ながら、育ってきた自分には、違和感があったものである。スーパー・クール・ビズの現象を眺めながら、懐かしい昔のことを想い起こした。我が老犬は、我関せずとばかりに、爆睡中である。


地名に想いを馳せる

2011年07月11日 | 自然・植物・昆虫
地方で、車を走らせていると、どう読んだら良いのか、戸惑う地名が時として、ある。又、どう見ても、その文字の意味するところ以外に、解釈のしようがない地名に、出くわすと、思わず、ビックリしてしまう。そんな、地名の一つに、「耳取」という地名に、近所で、出くわしてしまった。戦国時代には、討ち取った相手の武将の耳や、鼻先を、切って、持ち歩いては、戦後、論功行賞の際に、切り取った耳や、鼻先を、照合して、合致すれば、討ち取った証拠になると、ものの本に、書かれていたのを想い出した。碓氷峠の麓の横川駅の手前の川沿いに、「磔(ハリツケ)河原」という案内板が、あったが、いつも、ここを通るときには、その字が表す通り、心の中で、思わず、手を合わせてしまう。晴天率の一番高い小諸市の中でも、私の地番は、どういう訳か、「雨田」という名前がついているが、それ程、降雨確率が、高いとも、思えないが、、、、、。そんな風に、昔の人が付けたであろう地名の由来に、想いを馳せるのも、又、一興である。家の近くの獣道も、武田や、真田の斥候が、物見に、使った道かも知れないと、散歩をしてても、何か、不意に、松林の陰から、出てくるような気がしてならない。(笑)

小諸、祇園祭り= 伝統・文化の継承

2011年07月10日 | 伝統工芸・展示会
健速神社の六角御輿の再建二百年祭だそうで、宮だし・石段下りのところを、覗いた。氏子を除いて、存外、若い人が、とりわけ、子供連れの人達が、多いのには、驚かされた。親子三代での見物も、多かった。鎌倉時代以前まで、遡る祇園信仰は、幾つかの神事に、代表される中で、子供を御輿に、乗せて、その健やかな成長を祈る伝統は、確かに、子供の頃からの伝統・文化に対する教育というよりも、生活の中に根ざした「体験・参加」を通して、生活の一部として、体内・血の中に、継承されていくのではないだろうか?次の100年に向かって、どのように、受け継がれていくのであろうか?御輿に投げられた賽銭を拾う子供達に、今から、60余り前の錦糸町で、兄弟で、撮って貰った法被姿の写真が、二重写しに、想い起こされる。


コゲラの巣発見

2011年07月09日 | 自然・植物・昆虫
荻窪の玄関には、その昔、白樺の木を植えて、巣箱をおいて、シジュウカラを何回か、巣立ちさせたが、その古木も、台風で、途中から、折れてしまい、やむなく、切り倒し、今でも、その枝の一部が、小諸の書斎の棚に、記念に、インテリアとして、置かれている。そんな思い出のせいか、小諸の家を建てるときには、白樺の樹を植えたいものだと思い、樹形を考慮して、2本、大きいものと、やや、小ぶりの2本を揃えて、植樹した。23年前のことである。それから、白樺の樹は、高原の気候と相性が良いのか、どんどん、葉を茂らせて、大きくなり、2階にまで、達しようかという程、成長した。夏は、もちろん、秋には、黄色に色づき、楽しませてくれた。しかし、年々、カミキリムシの影響か、まるで、散弾銃の弾丸を身体全体に、受け止めたように、丸い穴が、そこかしこに、広がり、結局、3年程前には、台風で、2本とも、途中から、折れて朽ち果ててしまった。白い木肌が、とても、緑の中に映えるので、そのままにしておいた。多分、啄木鳥でも、虫を捕るようにとも、考えていたところ、昨日、ふと、何気なく、見ると、直径5cm程の大きな穴があいていて、そこに、コゲラが、入っていくところを目撃した。少し経つと、穴から、出て、桜の樹に、よじ登ってゆき、松の梢から、どこかへと、飛んでいった。朽ち果てた樹は、樹なりに、啄木鳥などの鳥には、すみかになることを、知ってはいたが、改めて、再認識させてもらった。次は、是非、子育てを見たいものである。(警戒心の強い鳥なのか、写真を撮ろうと思ったら、逃げられてしまった。)



春蝉の幼虫と空蝉

2011年07月08日 | 自然・植物・昆虫
紅葉の木の根元や、裏の水道パイプに、今年も、又、小さな蝉の抜け殻を、見つけた。6月頃から、お日様がさしだすと、待ってましたかのように、ジージー、ギー・ギーと、うるさいくらいに、鳴き始めた。子供達が、小さかった頃は、夜、懐中電気で、蝉の幼虫が、地上から、這い上がる頃を見計らって、虫かごに、捕捉して、これを、真夜中に、掛けて、脱皮する様を、夢中になって、観察したものである。殻を、背中から、のけぞりながら、割る様、羽に、血液が、徐々に、廻って蝉らしくなる様、等、蝉になる瞬間を、驚きをもって、見守ったものである。ある時、松の根元を、シャベルで、掘り返していたら、何か、白っぽい、茶色の殻を被った昆虫を、誤って、掘り返してしまった。思わず、蝉の幼虫だと知った。卵から、かえって、地上から、地下へ、潜り、木の根の汁を吸うこと、7年とも、10年とも、言われているが、蝉になった途端、わずか、7日-10日で、その命を終えてしまう。命のはかなさをたとえる例として、使われるが、蝉になる前に、事故死させてしまった幼虫のことを、今でも、抜け殻や、鳴き声を聴くたびに、思い起こす。それからは、いつも、穴を掘るときに、幼虫が、出てこないように、祈りつつ、掘っている。


炊き込みご飯と生産原理

2011年07月07日 | 男の手料理・食
生産管理の手法の一つに、HACCP(Hazardoius Analysis of Criticl Control Point)というNASAが、編み出した手法がある。、奥さんが用事があって、一人で、老犬と一緒に、こなければならないときには、料理も洗濯も、炊事もという時には、惚け予防どころではなく、何でも一人で、しなければならなくなる。そんなときに、ふと、この仕事で使っている手法は、男の料理に、生かせないかと、思う。要するに、栄養バランスをよく、且つ、後片付けも、簡素化、省エネ化、そこで、(一汁・一菜)を応用して、米X何X何という風に、クロス。オーバーできないかと考えていたところ、例えば、トリ飯、鯛飯、わかめご飯、タケノコご飯、ひじきご飯、山菜ご飯、とか、更に、これに、人参、ゴボウ、こんにゃく、刻み油揚げ、次々に、バリエーションが、できてくる。料理本も、レシピー、生産工程、Critical Point, (一番肝心な工程)、だけではなくて、クレームも、入れていて、もらいたいものだ。もっとも、自分の腕が悪くて、できが悪いとクレームされても、困るが、そこは、男の料理、自己責任で、味わうしかないか?行きつけの中華そばやで、食べたワンタン麺を思い出して、ワンタン汁を添えてみた。うっかりして、炊き込みご飯に、きざみ油揚げを入れ忘れた。原材料のスペック・製造工程、もっと、段取りよくと思いつつ、、、、、これが、仕事だったら、馬鹿野郎ものだ。(PS)地元の地ビール(雷電ブランド)夏仕込みも、抜け目なく賞味した




泥バチの巣

2011年07月06日 | 自然・植物・昆虫
子供の頃、ファーブル昆虫記を夢中で、読んだことを想い出す。もう10数年も昔のことだったろうか、玄関の軒先に、あるとき、ものの見事に、まるで、一夜城の如き、それは、立派な蜂の巣が、しかも、その模様たるや、芸術的な文様で、陶器のような趣が感じられる程だった。ある日、その蜂の巣のしたの穴からだろうか(?)白い芋虫のような蜂の子が、落ちているのを視たことがある。戻すに戻せず、結局、死んでしまったのであろうか?どのくらいの期間を費やして、作られたのか、皆目、分からないが、写真にとって、しかも、空き家になった巣を、今でも、保存しているが、その後、そのような蜂の巣を目にすることはなくなってしまった。泥で、出来ているのではなくて、何か、粘っこい粘液質の者で、その巣は、出来ている。サッシの隙間に、どういうわけか、泥蜂が、今年の夏も、巣を作り始めて、せっせと、青虫などを餌やりに、忙しく、飛んでは去り、又、飛んで来てを繰り返している。子供が使っていた植物図鑑では、とっくりバチの一種のようなものだが、あの芸術的な巣を作ったあのハチは、どこへ、消えてしまったのだろうか?写真と巣だけが、手許に、残っているが、、、、、、。


ワン・コインの至福、ローカル温泉施設

2011年07月05日 | 自然・植物・昆虫
ずいぶん前になるが、ふるさと創生基金で、各町に、温泉施設ができ、おかげで、何軒かの温泉施設を、利用させてもらっているが、生憎、いつも利用している(あぐりの湯)、更には、(御牧の湯)も、改修工事や、道路の工事の関係で、10数年余り前に、利用したことのある(湯楽里館)を久方ぶりに、平日に、訪問した。昔に比べて、設備も立派になり、レストランや、地ビールや、特産品を販売する施設も併設されている。わずか、ワン・コインで、まるで、露天風呂や、オリーブ油やら、サウナやらと、眼下に、町並みと遠く、山並みを、眺めつつ、ツバメの羽ばたきと緑を満喫できることは、都会から、きた人間には、本当に、贅沢なものである。何軒かの共通温泉施設も、半年や、年間通しの優待券があり、プールや、健康管理に、メタボ対策に、こうした施設が、活用されることは、意義深いものがある。頭の先から、足の先まで、全身の血が、まるで、フィルターをかけられたかのように、汗と一緒に、老廃物が、排出されるようだった。ご老人が、元気な訳である。少しでも、あやかりたいものだ。




信州ダービーに視る

2011年07月04日 | スポーツ
我々の世代は、川上や、長島の根っからの野球世代だが、サッカーは、どちらかと言えば、やや、出遅れた観があった。近年では、逆に、Jリーグの隆盛や、ワールドカップなどの影響で、同じ都市のチームが、戦うことを、何々ダービーと言うそうである。東北地方が、今回の震災で、こんなにも、日本経済の中に、大きな役割を占めていたことを、改めて、再認識したが、たまたま、信濃毎日新聞を読んでいると、野球でも、サッカーでも、信州のチームを、応援する企業広告を、数多く、見かける。むろんローカルの会社あり、全国区の会社あり、様々であるが、余り、東京では馴染みのないJFLやら、独立リーグでも、その応援する意気込みや、熱気、サポーターの志の高さたるや、如何んばかりか?その一面を飾る信州のサポーター企業に、日本のものつくりの、いや、信州におけるものつくりの深さを感じる。東京のテレビでは、滅多に目にしないチームの名前とサポーター企業名に、思わず、頑張れと叫びたい!

クレープ・キットを試す

2011年07月03日 | 男の手料理・食
少し、以前、「食べてはいけない食品」という者があったが、クレープは、限りなく、それに近い、リスト・アップされた料理である。禁断の所品を棚に認めて、何気なく、残っていた生クリームとバナナと、そして、チョコレートを想い出し、禁断の扉をついに、開いてしまった。最近テレビで、ものつくりの現場をみせる番組が人気を呼んでいるが、たまtま、不二家の(ミルクレープ)を作るところをやっていたのも、実は、最大の良いわけだろうか?取りあえず、お玉の底を鉄板に、くっつけて、拡げることを確認したのは、既に、何枚かの不釣り合いのクレープが、出来てからの後の祭りだった。とにかく、バナナと、生クリームとチョコレートで、何とか、曲がりなりにも、原宿のクレープショップの水準とは、随分異なるが、キットのお試しが、終了し、食べてはいけない者に、限りなく、近い食品を、贅沢に、ペロリと平らげてしまった。次回は、いよいよ、ミルクレープに、いよいよ、挑戦準備である。


名も知らぬ花に想う

2011年07月02日 | 自然・植物・昆虫
都会の庭は、何とも、デザインを施した何か、人工的な趣で、味気ないが、別荘地でも同様に、都会の庭のコンセプトをそのまま、持ち込んで、やたら、庭を主張する傾向が、都会出身者には、多く、みられる。自然な雑木林の趣をもった、四季折々の顔をもった自然な佇まいが、自然と調和した、植物や動物や虫たちと共生した風景が、贅沢だと思う。東京では、樹木も下からしか、見上げることしか、できないが、小さな樹海(?)をベランダから、眺めながら、梢を渡る風を感じるのも、一寸、違った樹木の見方ができるものである。子供達が昔、使っていた植物図鑑を調べても、名前が皆目、分からないが、名前を知らなくても、小さな花の命を、1年に、1回だけ、限られた時間を共有しながら、眺めることは、極上の喜びである。