たとえば「偉大」には悪い意味がないのに、「尊大」にはよい意味がありません。「尊」も「大」もよい感じ、もとい、よい漢字なのに、なぜなんだろう?
【ただいま読書中】
『ローマ人の物語II ハンニバル戦記』塩野七生 著、 新潮社、1993年、2940円(税込)
ローマはイタリア半島を統一し、つぎはポエニ戦役です。「わ~い、ハンニバルだ」と私は単純に喜びます。ただ、象をつれてのアルプス越え、くらいで、あとは詳しい知識がないことに気がついて愕然ともします。
ことの発端はシチリア(紀元前264年)。当時この島の西半分はフェニキア系のカルタゴ、南はギリシア系のシラクサ支配で、北東に圧迫されていたメッシーナはローマに救援を依頼します。初めて渡海したローマ軍は、メッシーナをローマ連合に加え、シラクサとは講和条約を結びます。アフリカ北部の海岸線・スペインの南岸・地中海の島々を支配していたカルタゴは本気になります。それまであまり深い関係のなかった新興小国「陸の民ローマ」と大国「海の民カルタゴ」の衝突です。ローマは海軍の必要性を実感しカルタゴの軍船を模倣します。急造海軍で早速一戦……無謀です。当然のように戦う前から総指揮の執政官以下多くのローマ兵が捕虜になってしまいますが、ローマは不得手の海戦を得意の陸戦に変換しようと、敵船と自船を固定してローマ兵がなだれ込むことができる通路「カラス」を開発します。この新兵器によって、ローマは大勝利を得ます。ローマはついにアフリカに上陸。危機感を強めたカルタゴは、スパルタ人の傭兵隊長クサンティッポを雇い入れ、大勝利を得ます。陸戦では象が大活躍し、海戦では(また)カルタゴは敗れましたが嵐によってローマ側は大損害を受けたのです。
ここで面白いのは「敗軍の将」に対する遇し方です。ローマは罰しません。名誉を重んじる社会では負けて恥をかいただけで十分な罰だからです。さらに「教訓を得ただろう」ということで次(あるいはもう少し後)の戦いにまた起用されます。それでも使い物にならなければ執政官の選挙で選出されなくなるだけです。ところがカルタゴは違います。負けたら死刑。兵隊も全然違います。ローマは市民兵ですが、カルタゴは傭兵が主体です。
紀元前247年、カルタゴはハミルカルという司令官を戦線に送り込みます。その年ハミルカルは息子を得ていました。息子の名は、ハンニバル。ハミルカルは有能な武将でしたが、カルタゴの国内問題が彼を妨害します。国内の農業重視派と国外への進出重視派の政治的対立です。政治に足を引っ張られながらも、少ない軍勢を活用してハミルカルはシチリア戦線を膠着状態に持ち込みます。ローマは陸戦での決着をあきらめ、制海権を得ることに方針を変更します。そしてローマの勝利(シチリアからのカルタゴの撤退)で紀元前241年に第一次ポエニ戦役は終了します。
ハミルカルは一族を連れてスペインに移住し、農園と銀山経営で成功します。その頃ローマは、同盟国でも植民地でもない「属州」制度をシチリアで試していました。さらにアルプス以南のガリア人の平定も行いました。そしてついにハンニバルが歴史の舞台に登場します。守りの堅い、西と南を避け、さらにはローマの同盟国マルセーユも迂回して、北のアルプスを越えてイタリア半島へ侵入するのです。象をつれてのアルプス越えで3万以上の損害を出したハンニバル軍は2万6千になっていました。数だけ見たらローマの方が圧倒的に有利ですが(当時、予備役まで根こそぎ動員したら75万が動員可能でした)騎兵の比率が高いことがハンニバルの軍事的利点でした。
じつはここからが本当に面白いのですが、それは本書を読んでください。「古代の戦争は、正義と悪の戦いではない。勝者と敗者があるだけ。戦争が終結した時、まず感じたのは勝利の喜びではなくて、平和が来たことへの喜び」と本書にあります。なかなか含みがある文章です。「血に飢えた蛮人が、武器を片手に押し寄せる」のではなくて、戦う理由があるから戦い、戦いがすめばさっさと講和条約を結んで本国に帰りたがる……古代ローマ人の姿がなんだかとても人間くさく思えます。
カルタゴと戦うことでローマは海戦と海上輸送の重要性を学びます。イタリア国内に乱入してきたハンニバルと戦うことで(敗れ続けることで)ローマは陸戦の戦術を学びます。それは「適材適所」とまとめることができる戦法でしたが、常にローマ兵と同盟国軍との“多国籍軍”で戦うローマにとって、それは最適の戦い方と言えるでしょう。多大の出血を強いられながら、なんとかカルタゴに勝利したローマは、結果として属州や同盟国を含めて、地中海沿岸のほとんどに覇権を唱えることになります。東では秦の始皇帝が天下を統一した頃です。いやあ、歴史って面白いなあ。
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『ローマ人の物語II ハンニバル戦記』塩野七生 著、 新潮社、1993年、2940円(税込)
ローマはイタリア半島を統一し、つぎはポエニ戦役です。「わ~い、ハンニバルだ」と私は単純に喜びます。ただ、象をつれてのアルプス越え、くらいで、あとは詳しい知識がないことに気がついて愕然ともします。
ことの発端はシチリア(紀元前264年)。当時この島の西半分はフェニキア系のカルタゴ、南はギリシア系のシラクサ支配で、北東に圧迫されていたメッシーナはローマに救援を依頼します。初めて渡海したローマ軍は、メッシーナをローマ連合に加え、シラクサとは講和条約を結びます。アフリカ北部の海岸線・スペインの南岸・地中海の島々を支配していたカルタゴは本気になります。それまであまり深い関係のなかった新興小国「陸の民ローマ」と大国「海の民カルタゴ」の衝突です。ローマは海軍の必要性を実感しカルタゴの軍船を模倣します。急造海軍で早速一戦……無謀です。当然のように戦う前から総指揮の執政官以下多くのローマ兵が捕虜になってしまいますが、ローマは不得手の海戦を得意の陸戦に変換しようと、敵船と自船を固定してローマ兵がなだれ込むことができる通路「カラス」を開発します。この新兵器によって、ローマは大勝利を得ます。ローマはついにアフリカに上陸。危機感を強めたカルタゴは、スパルタ人の傭兵隊長クサンティッポを雇い入れ、大勝利を得ます。陸戦では象が大活躍し、海戦では(また)カルタゴは敗れましたが嵐によってローマ側は大損害を受けたのです。
ここで面白いのは「敗軍の将」に対する遇し方です。ローマは罰しません。名誉を重んじる社会では負けて恥をかいただけで十分な罰だからです。さらに「教訓を得ただろう」ということで次(あるいはもう少し後)の戦いにまた起用されます。それでも使い物にならなければ執政官の選挙で選出されなくなるだけです。ところがカルタゴは違います。負けたら死刑。兵隊も全然違います。ローマは市民兵ですが、カルタゴは傭兵が主体です。
紀元前247年、カルタゴはハミルカルという司令官を戦線に送り込みます。その年ハミルカルは息子を得ていました。息子の名は、ハンニバル。ハミルカルは有能な武将でしたが、カルタゴの国内問題が彼を妨害します。国内の農業重視派と国外への進出重視派の政治的対立です。政治に足を引っ張られながらも、少ない軍勢を活用してハミルカルはシチリア戦線を膠着状態に持ち込みます。ローマは陸戦での決着をあきらめ、制海権を得ることに方針を変更します。そしてローマの勝利(シチリアからのカルタゴの撤退)で紀元前241年に第一次ポエニ戦役は終了します。
ハミルカルは一族を連れてスペインに移住し、農園と銀山経営で成功します。その頃ローマは、同盟国でも植民地でもない「属州」制度をシチリアで試していました。さらにアルプス以南のガリア人の平定も行いました。そしてついにハンニバルが歴史の舞台に登場します。守りの堅い、西と南を避け、さらにはローマの同盟国マルセーユも迂回して、北のアルプスを越えてイタリア半島へ侵入するのです。象をつれてのアルプス越えで3万以上の損害を出したハンニバル軍は2万6千になっていました。数だけ見たらローマの方が圧倒的に有利ですが(当時、予備役まで根こそぎ動員したら75万が動員可能でした)騎兵の比率が高いことがハンニバルの軍事的利点でした。
じつはここからが本当に面白いのですが、それは本書を読んでください。「古代の戦争は、正義と悪の戦いではない。勝者と敗者があるだけ。戦争が終結した時、まず感じたのは勝利の喜びではなくて、平和が来たことへの喜び」と本書にあります。なかなか含みがある文章です。「血に飢えた蛮人が、武器を片手に押し寄せる」のではなくて、戦う理由があるから戦い、戦いがすめばさっさと講和条約を結んで本国に帰りたがる……古代ローマ人の姿がなんだかとても人間くさく思えます。
カルタゴと戦うことでローマは海戦と海上輸送の重要性を学びます。イタリア国内に乱入してきたハンニバルと戦うことで(敗れ続けることで)ローマは陸戦の戦術を学びます。それは「適材適所」とまとめることができる戦法でしたが、常にローマ兵と同盟国軍との“多国籍軍”で戦うローマにとって、それは最適の戦い方と言えるでしょう。多大の出血を強いられながら、なんとかカルタゴに勝利したローマは、結果として属州や同盟国を含めて、地中海沿岸のほとんどに覇権を唱えることになります。東では秦の始皇帝が天下を統一した頃です。いやあ、歴史って面白いなあ。