子ども時代に母親が電話に出ると、それまでの声とは1オクターブ高い声を出すことが私は不思議でした。「よそいきの声」とご本人は称していましたが、友人の家に行った時そちらでもお母さんが同じように1オクターブ高くしているのを目撃(聞撃?)して、日本中のあちこちで同じ現象が起きているんだな、と私は確信しました。電話に向かってお辞儀をしているのも不思議でしたが、これは私もついやってしまいます。
今はそんなに「よそいきの声」は日本に蔓延していないのかな?
【ただいま読書中】
『子どもの声が低くなる! ──現代ニッポン音楽事情』服部公一 著、 ちくま新書228、1999年、660円(税別)
子どもの歌唱指導をしていて以前より声域が3度ほど低くなっていることに著者は本書執筆の20年くらい前に気づきました。ではその原因は? 住環境、遊びの変化、食事の変化、と著者は様々な考察をしますが、結論は……
絶対音感神話に対しての“反論”もあります。その中で一番納得がいくのは「絶対音感がなくても別に不便じゃない」。著者自身が絶対音感を持っていないからそう言うのかもしれませんが、実際に一流の演奏家や作曲家で絶対音感がない人はいくらでもいるそうです。二番目に納得がいったのは「基準音がばらばら」。「A音は440ヘルツ」と一応キマリはありますが、それをきちんと守っているのはイギリスで、アメリカのオケは440~442、日本のオケは442、ウイーン・フィルやベルリン・フィルは445~446……ピッチが高い方が華やかな演奏にはなりますが、ドイツの古楽器演奏団コレギウム・アウレムは422です。さて、これを全部「絶対音感」で処理できるのかな?
昭和30年、丸の内のオフィス街で、集まった学生たちが徹夜で合唱をするシーンも登場します。いやあ、想像すると美しい。各大学ごとにつぎつぎ“発表”して、夜明けになって全員が合唱する最後の曲がマルシュネルの「小夜曲」。(本書には「ステンチェン」とありますが私の中ではそれは「ステントゥヘン」に変換されます) たしかに、どの大学であろうと、グリークラブだったらこの曲はまず間違いなくやっているはずですから、そういう流れになるのは納得です。で、このエピソードはプロローグで、そのあとに来るのが……
日本のママさんコーラスが世界最高水準のわけ、オペラでの日本語の歌詞について、カラオケの意外な活用法など、様々な話題に触れた後、著者は「音楽教育」を取り上げます。文明開化以後日本には西洋音楽が定着しました。それは政府がそう決めたからですが、「国民が親しむ音楽を政府が決める」は世界的にはきわめて珍しい行為です。
文部省唱歌や尋常小学校唱歌が(玉石混淆ではありますが)明治時代に日本で“下地”を作り、それから大正時代に数々の童謡が生まれます。明治34年には東京音楽学校ができ、山形から上京してそこの師範科でヴィオラを弾いていた佐藤タキが、著者の祖母となります。政府主導で「芸術」を根付かせようとする運動は、たとえば絵画の世界では「日展入賞かどうか」での画家の格付けにつながります。しかし音楽ではそういった官製コンクールは根付きませんでした。ただ、たとえばお見合いの時の釣書に「芸大を受験した」が一つの“肩書き”として通用する程度には“格付け”が生きている例が本書には(微苦笑とともに)紹介されています。
そしていつのまにか著者が“舞台”に登場しています。昭和20年代のNHKラジオのど自慢で伴奏をやっているではありませんか。地方大会の予選の予選の状況など、まあなんというかのどかでしかもどたばたという、今からは考えにくいことが書いてあります。
著者が童謡に求めるのは、歌いあげる美しいメロディ・詩情・美しい変化をするハーモニー・子どもが歌える音域・日本語での歌いやすさ……「童謡は子供だましの音楽ではない」が著者の主張です。私はそれに同意します。
そして「学校での音楽教育」。著者はどうも現在の日本での音楽教育には否定的な考え方のようです。少なくとも、中学高校で音楽をやる必要はなし、と断言しています。今のように音楽が満ちあふれている社会で、わざわざ授業として音楽を教え点をつける必要があるとは、たしかに思えません。そもそもテストで点をつけられる時点で音“楽”ではありません。選択科目あるいはクラブ活動にして、教師はレベルが高い人を厳選して配置すれば、そこで音楽の真の楽しさに目覚める人も(少なくとも今よりは)多くなるでしょう。そういえば私が音楽の楽しさを知ったのは、学校の外でしたっけ。
今はそんなに「よそいきの声」は日本に蔓延していないのかな?
【ただいま読書中】
『子どもの声が低くなる! ──現代ニッポン音楽事情』服部公一 著、 ちくま新書228、1999年、660円(税別)
子どもの歌唱指導をしていて以前より声域が3度ほど低くなっていることに著者は本書執筆の20年くらい前に気づきました。ではその原因は? 住環境、遊びの変化、食事の変化、と著者は様々な考察をしますが、結論は……
絶対音感神話に対しての“反論”もあります。その中で一番納得がいくのは「絶対音感がなくても別に不便じゃない」。著者自身が絶対音感を持っていないからそう言うのかもしれませんが、実際に一流の演奏家や作曲家で絶対音感がない人はいくらでもいるそうです。二番目に納得がいったのは「基準音がばらばら」。「A音は440ヘルツ」と一応キマリはありますが、それをきちんと守っているのはイギリスで、アメリカのオケは440~442、日本のオケは442、ウイーン・フィルやベルリン・フィルは445~446……ピッチが高い方が華やかな演奏にはなりますが、ドイツの古楽器演奏団コレギウム・アウレムは422です。さて、これを全部「絶対音感」で処理できるのかな?
昭和30年、丸の内のオフィス街で、集まった学生たちが徹夜で合唱をするシーンも登場します。いやあ、想像すると美しい。各大学ごとにつぎつぎ“発表”して、夜明けになって全員が合唱する最後の曲がマルシュネルの「小夜曲」。(本書には「ステンチェン」とありますが私の中ではそれは「ステントゥヘン」に変換されます) たしかに、どの大学であろうと、グリークラブだったらこの曲はまず間違いなくやっているはずですから、そういう流れになるのは納得です。で、このエピソードはプロローグで、そのあとに来るのが……
日本のママさんコーラスが世界最高水準のわけ、オペラでの日本語の歌詞について、カラオケの意外な活用法など、様々な話題に触れた後、著者は「音楽教育」を取り上げます。文明開化以後日本には西洋音楽が定着しました。それは政府がそう決めたからですが、「国民が親しむ音楽を政府が決める」は世界的にはきわめて珍しい行為です。
文部省唱歌や尋常小学校唱歌が(玉石混淆ではありますが)明治時代に日本で“下地”を作り、それから大正時代に数々の童謡が生まれます。明治34年には東京音楽学校ができ、山形から上京してそこの師範科でヴィオラを弾いていた佐藤タキが、著者の祖母となります。政府主導で「芸術」を根付かせようとする運動は、たとえば絵画の世界では「日展入賞かどうか」での画家の格付けにつながります。しかし音楽ではそういった官製コンクールは根付きませんでした。ただ、たとえばお見合いの時の釣書に「芸大を受験した」が一つの“肩書き”として通用する程度には“格付け”が生きている例が本書には(微苦笑とともに)紹介されています。
そしていつのまにか著者が“舞台”に登場しています。昭和20年代のNHKラジオのど自慢で伴奏をやっているではありませんか。地方大会の予選の予選の状況など、まあなんというかのどかでしかもどたばたという、今からは考えにくいことが書いてあります。
著者が童謡に求めるのは、歌いあげる美しいメロディ・詩情・美しい変化をするハーモニー・子どもが歌える音域・日本語での歌いやすさ……「童謡は子供だましの音楽ではない」が著者の主張です。私はそれに同意します。
そして「学校での音楽教育」。著者はどうも現在の日本での音楽教育には否定的な考え方のようです。少なくとも、中学高校で音楽をやる必要はなし、と断言しています。今のように音楽が満ちあふれている社会で、わざわざ授業として音楽を教え点をつける必要があるとは、たしかに思えません。そもそもテストで点をつけられる時点で音“楽”ではありません。選択科目あるいはクラブ活動にして、教師はレベルが高い人を厳選して配置すれば、そこで音楽の真の楽しさに目覚める人も(少なくとも今よりは)多くなるでしょう。そういえば私が音楽の楽しさを知ったのは、学校の外でしたっけ。