自民党でも民主党でも、会期延長だ強行採決だ、と似たことをやっているのを見てうんざりします。日本の民主主義は「十二歳」から全然成熟していない、ということなんですかね。でも、実際の小学生の議事運営では、もうちょっとまっとうなことをやっているところはあるんじゃないかしら。
【ただいま読書中】
『日本めん食文化の一三〇〇年』奥村彪生 著、 農文協、2009年、3800円(税別)
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4540073052?ie=UTF8&tag=m0kada-22&link_code=as3&camp=767&creative=3999&creativeASIN=4540073052
著者はプロの料理人ですが、本書はその学位論文を元に作られた本です。論文の柱は、古文献・各地の現地調査ですが、本書のユニークな点は、調査した麺類を実際に復元し、それを官能試験や化学分析にかけていることです。さすがプロの料理人。「机上の空論」ではありません。
「麺」という漢字に関する考察で本書は始まり、まず本書の対象とする「めん」を、小麦粉で作られたひも状の食品(とそば切り)とします。パスタ・はるさめ・ビーフンは除外されています。
弥生時代に小麦は栽培されていましたが食べ方は不明です。奈良時代には実が完熟する前に刈り取られて冬の飼料とされていました。鎌倉時代に小麦の生産量は増え、京を中心とした都市部で貴族や僧によってめん類が食べられるようになります。
さっそく再現実験が行なわれます。中国6世紀の文献に従って再現されためんは手でもむニラの葉のような形のめん「水引」です。
日本最古のめんは「さくべい(索餅)」。漢の時代の辞書『釈名』に登場しますし、正倉院文書にも記述があるそうです(写経所でさかんにさくべいを食べているそうです)。著者はここで古語大辞典や広辞苑、従来の説をあっさり否定して見せます。実際に延喜式の記述通り作り、レシピの米粉が、めんに練り込まれたものではなくて打ち粉であることを証明するのです。実にさりげなく書いてありますが、大きな学問的成果です。食べ方も面白い。二杯酢様のソースをかけたりクルミソースをかけたり、あるいはゆでた小豆を水飴で味付けしてそれをトッピングしたり。
平安時代に日本に伝わったのは、掌で舌型にうすくのばしためん「餺飩(はうとん)」ですが、手延べからのし棒でのして包丁で方形に切るものに変化します。清少納言や藤原道長も食べています。これが今に残るのが、山梨の「ほうとう」、長野の「おほうとう」「にぎりぼうとう」「ひんのべ」、群馬の「おきりこみ」、大分の「ほうちょう」……まだまだあります。よくまあこれだけ調査したものだと感心します。しかも全部レシピが載ってます。
中国、宋~南宋の時代に、さくべいは素麺に進化します。それが鎌倉時代に日本に伝わってきます。室町時代には京で「そうめん屋」が営業していた記録があります。ちなみに三輪素麺が奈良時代から、というのは根拠が薄い、と著者は言っています。また当初はできたてのを「生そうめん」と言って食べていましたが、江戸中期頃から「古(ひね)」が珍重されるようになります。売れ残った季節商品を翌夏に売るための宣伝と同時に、製法の進歩で極細の素麺が作れるようになりましたが細いゆえに弾力を弱く感じそれが古くなると腰が強くなることを生かしての販売戦略だったようです。(ちなみにある程度の古さは必要だが、いきすぎたらかえって不味くなることも著者は実験で明らかにしています)
宋では切麺(めん棒で伸ばしたたんで包丁で切る)の技術が発達します。その技術が日本に伝わったのは従来の学説では南北朝時代とされていましたが、著者は新しい史料からそれは鎌倉時代、と唱えます。いろいろ従来の説をひっくり返す本です。1305年の史料に「きりむぎ」の記載があるのです。「うどん」が記録に登場するのは1354年。製法は現在とほとんど変わりません。きりむぎはうどんより細く冷やして食べるものだったそうです(だから「冷や麦」)。
明治になって日本に登場しためんの代表が支那そばです。ラーメンについても興味深い記述がてんこ盛りですが、その中の一つを紹介しましょう。インスタントラーメンの生みの親安藤百福氏は特許を取らず技術を公開したそうです。それで「ラーメン」が日本に定着したのだそうで……
そしてソバ。もとは救荒植物でした。もとは丸ごと蒸して食べていたそうです。あるいはそば粉を味噌汁や野菜の煮物に振り込んでこねる「ソバ粥」。そして、私が好きなそばがき。そば粉のクレープの日本版も各地にあります。そしてそば切(細長い麺としてのソバ)。そのモデルになったのはきりむぎです。江戸にそば屋が出現するのは寛永の頃。一定の場所に店を構えるのと屋台と振り売り(行商)の三形態がありました。職人と食べ手、双方の“腕”が上がり、そば文化が花開きます。ただし、東北の山里ではそば切はハレの食べ物でした。この部分の文章は、「人々の生活」に対する著者の暖かい思いがにじみ出ています。
そして最終章。「大坂はうどん/江戸はそば切」には「水」が関係している、と著者は言います。江戸には上水道が整備されましたが、大坂は「水の都」と呼ばれるのに反し水質は悪いものでした(滝沢馬琴がそれを指摘しています)。水を大量に必要とする盛りやざるが江戸で多く消費されたのは、庶民の味覚の差もあるが、水が多く使えたかどうかも大きい、のだそうです。
日本料理は油ではなくて水を食べる文化、と言うこともできるのでしょう。刺身は魚を食っているように見えますが、魚をさばくところで大量に水が消費されます。豆腐なんか販売するときにも水を使います。だとしたら「美味し国」では「水」をもっと大切にしないといけませんね。
【ただいま読書中】
『日本めん食文化の一三〇〇年』奥村彪生 著、 農文協、2009年、3800円(税別)
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著者はプロの料理人ですが、本書はその学位論文を元に作られた本です。論文の柱は、古文献・各地の現地調査ですが、本書のユニークな点は、調査した麺類を実際に復元し、それを官能試験や化学分析にかけていることです。さすがプロの料理人。「机上の空論」ではありません。
「麺」という漢字に関する考察で本書は始まり、まず本書の対象とする「めん」を、小麦粉で作られたひも状の食品(とそば切り)とします。パスタ・はるさめ・ビーフンは除外されています。
弥生時代に小麦は栽培されていましたが食べ方は不明です。奈良時代には実が完熟する前に刈り取られて冬の飼料とされていました。鎌倉時代に小麦の生産量は増え、京を中心とした都市部で貴族や僧によってめん類が食べられるようになります。
さっそく再現実験が行なわれます。中国6世紀の文献に従って再現されためんは手でもむニラの葉のような形のめん「水引」です。
日本最古のめんは「さくべい(索餅)」。漢の時代の辞書『釈名』に登場しますし、正倉院文書にも記述があるそうです(写経所でさかんにさくべいを食べているそうです)。著者はここで古語大辞典や広辞苑、従来の説をあっさり否定して見せます。実際に延喜式の記述通り作り、レシピの米粉が、めんに練り込まれたものではなくて打ち粉であることを証明するのです。実にさりげなく書いてありますが、大きな学問的成果です。食べ方も面白い。二杯酢様のソースをかけたりクルミソースをかけたり、あるいはゆでた小豆を水飴で味付けしてそれをトッピングしたり。
平安時代に日本に伝わったのは、掌で舌型にうすくのばしためん「餺飩(はうとん)」ですが、手延べからのし棒でのして包丁で方形に切るものに変化します。清少納言や藤原道長も食べています。これが今に残るのが、山梨の「ほうとう」、長野の「おほうとう」「にぎりぼうとう」「ひんのべ」、群馬の「おきりこみ」、大分の「ほうちょう」……まだまだあります。よくまあこれだけ調査したものだと感心します。しかも全部レシピが載ってます。
中国、宋~南宋の時代に、さくべいは素麺に進化します。それが鎌倉時代に日本に伝わってきます。室町時代には京で「そうめん屋」が営業していた記録があります。ちなみに三輪素麺が奈良時代から、というのは根拠が薄い、と著者は言っています。また当初はできたてのを「生そうめん」と言って食べていましたが、江戸中期頃から「古(ひね)」が珍重されるようになります。売れ残った季節商品を翌夏に売るための宣伝と同時に、製法の進歩で極細の素麺が作れるようになりましたが細いゆえに弾力を弱く感じそれが古くなると腰が強くなることを生かしての販売戦略だったようです。(ちなみにある程度の古さは必要だが、いきすぎたらかえって不味くなることも著者は実験で明らかにしています)
宋では切麺(めん棒で伸ばしたたんで包丁で切る)の技術が発達します。その技術が日本に伝わったのは従来の学説では南北朝時代とされていましたが、著者は新しい史料からそれは鎌倉時代、と唱えます。いろいろ従来の説をひっくり返す本です。1305年の史料に「きりむぎ」の記載があるのです。「うどん」が記録に登場するのは1354年。製法は現在とほとんど変わりません。きりむぎはうどんより細く冷やして食べるものだったそうです(だから「冷や麦」)。
明治になって日本に登場しためんの代表が支那そばです。ラーメンについても興味深い記述がてんこ盛りですが、その中の一つを紹介しましょう。インスタントラーメンの生みの親安藤百福氏は特許を取らず技術を公開したそうです。それで「ラーメン」が日本に定着したのだそうで……
そしてソバ。もとは救荒植物でした。もとは丸ごと蒸して食べていたそうです。あるいはそば粉を味噌汁や野菜の煮物に振り込んでこねる「ソバ粥」。そして、私が好きなそばがき。そば粉のクレープの日本版も各地にあります。そしてそば切(細長い麺としてのソバ)。そのモデルになったのはきりむぎです。江戸にそば屋が出現するのは寛永の頃。一定の場所に店を構えるのと屋台と振り売り(行商)の三形態がありました。職人と食べ手、双方の“腕”が上がり、そば文化が花開きます。ただし、東北の山里ではそば切はハレの食べ物でした。この部分の文章は、「人々の生活」に対する著者の暖かい思いがにじみ出ています。
そして最終章。「大坂はうどん/江戸はそば切」には「水」が関係している、と著者は言います。江戸には上水道が整備されましたが、大坂は「水の都」と呼ばれるのに反し水質は悪いものでした(滝沢馬琴がそれを指摘しています)。水を大量に必要とする盛りやざるが江戸で多く消費されたのは、庶民の味覚の差もあるが、水が多く使えたかどうかも大きい、のだそうです。
日本料理は油ではなくて水を食べる文化、と言うこともできるのでしょう。刺身は魚を食っているように見えますが、魚をさばくところで大量に水が消費されます。豆腐なんか販売するときにも水を使います。だとしたら「美味し国」では「水」をもっと大切にしないといけませんね。