【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

進歩

2009-12-30 17:55:34 | Weblog
 変化と進歩を混同してはいけません。もっとも「進歩は善」というのも固定観念でしかないのですが。もし本当に「進歩は善」なら、「進歩は善」という言葉自体も「進歩」しなければならないはずです。

【ただいま読書中】『ある文人代官の幕末日記 ──林鶴梁の日常』保田晴男 著、 吉川弘文館(歴史文化ライブラリー283)、2009年、1700円(税別)

 林鶴梁(かくりょう)は、二十俵二人扶持、鉄砲簞笥組同心という最下級の御家人出身ですが、三十七歳で御目見得となり勘定方、末席とはいえ旗本となる異例の出世をしました。儒者・詩人として「文人ネットワーク」を幕府内に形成して、それが彼の出世の役に立ったようです。後に鶴梁の作品は全集「鶴梁文鈔」としてまとめられ、夏目漱石や三田村鳶魚など明治から大正時代のインテリ青年の愛読書となっています。
 本書は天保十四年(1843年、38歳)から文久元年(1861年、56歳)までの鶴梁の日記です。
 妻に先立たれ、老母と子ども三人を抱えての再婚話がまとまりかけていた頃、鶴梁は、左遷(勘定役から評定所に出向していたのを取り消された)で減俸となり、小遣いは一日百文、米屋が集金に来たときには「当月末までは相渡しがたき旨申し遣わす」なんて節約生活になってしまいます(「二十俵二人扶持」だと、当時の米相場からは年収63万円だそうです)。意欲も衰え、3ヶ月の間に17回しか出勤しません(本来なら月に20日以上出勤、在宅勤務もあり)。うつ状態なのかそれともサボタージュかな。上役に注意されて以後は真面目に勤め、3年後には甲府徽典館の学頭として赴任します。1年後に江戸に戻り、こんどは新番(将軍外出時の護衛)に栄転。こんどはフルの勤務でも月に5日の出勤でよいというのどかな職でした。不寝番もあるとのことですが、将軍が夜間外出することなんてあったんですかねえ。しかも鶴梁は文人で武芸は不得手。まったく形式的な冗官です。
 家庭内はちょいと複雑です。どういう事情か、妻久の母も同居していて、鶴梁が誰かを叱責したときにはその母が娘の久や下女を折檻していました。のちに鶴梁がそれを知って「愕然これを久しうす」となり、「この日帰宅、決して大声など出さざる旨、一同へ申し聞かす」となります。ただし鶴梁がそれを知ったのは妻の死後だったのですが。自分の浅慮の言動が回り回って愛する者に危害を及ぼしていたとは、たしかに「愕然」だったでしょうね。再婚話も大変です。家の格式や禄高の釣り合い、相手の気質や容色などいろいろな条件があって、日記にあるだけで持ち込まれた話は18件、すべて不成立となっています。結局鶴梁の門弟の実姉中井庫子(くらこ)との話がまとまりますが、その婚礼の日の日記には「(先妻の)小香没後二百八十一日、出勤せず、庫来る」とあります。自宅での婚儀で九人の宴、費用は銀七十匁五分(一両一分くらい)でした。翌日鶴梁は出勤しますが、「風邪」のため早退、それから4日間休んでいます。しかし10年後、次男が思春期に入った頃、庫は実家に勝手に帰ってしまいます。これは当時は離縁の理由になります。しかし鶴梁はひたすら交渉を続け、長男が40回も義母の所に足を運びます。ある意味深刻なトラブルなのですが、家族の間の感情の交流を思うと、ほのぼのとした気持ちになります。
 お金の出し入れ、食事などの細かい記述が面白い。たとえば甲州街道の宿、公務の旅なのに泊まる本陣では木賃と米代を払っています。本陣なのに木賃宿扱いです。場所によっては夕食が「飯四杯、油揚げ一切れ、汁ひば〔干葉と書くのでしょうね。干した大根の葉)、鰯一匹、香の物」なんて粗末さ。
 嘉永六年ペリー来航。出入りの町人や訪れた水戸藩士の話で鶴梁は事件のことを知ります。幕府内では盛んに海防論が戦わされました。その騒動の中、鶴梁は遠州中泉(石高6万石)の代官を拝命します。就任の時の接待を鶴梁は極力断っていますが、余儀ない場合にはこれまでと同様食事の中身を細々と日記に書いています。前代官の怠惰のせいで、領民には不穏の気がありましたが、鶴梁はまめに巡察を行ない、訴えは無視せずきちんと処理するように努めています。幕府からは江戸湾台場建設費用を徴募するようにも求められます。安政元年には安政東海大地震、その翌年には天竜川・大井川の氾濫……代官には難題が続きます。幕府は基本的には「手切り」と言って、困窮民の救済をきちんとするように通達は出しますが具体的な活動は現地に任せていたため、鶴梁は中央に伺いなど出さずに米金を与えたり貸し出したりしています。民間からも寄付があり、それらも貸し付けたり次の災害に備えての備蓄にしたりしています(この備蓄分が明治時代まで引き継がれ、町の基本財産となっています)。さらに社会不安が増し、博徒などが強盗事件などを起こすようになっています。
 安政五年、鶴梁は羽州柴橋(山形県寒河江市)に任地替えになります。幕府からの使命は、生産量が上がらない幸生銅山の増産。鶴梁は抗夫のやる気を出させる策で、増産に成功します。これは鶴梁の儒家としての牧民思想によるものだそうです。そしてこの時期は安政の大獄とも一致していました。
 親交を結んでいた藤田東湖との縁で鶴梁は水戸の徳川斉昭らとの関りを得ます。水戸老公は海防問題の幕府参与で、それもあって鶴梁は水戸藩の改革派の人々と深い関係を持つようになります。尊皇攘夷でしかも幕府の役人です。だんだん鶴梁の立場は難しくなります。「和宮様下向につき、年頭兼勅使供奉の公家衆御馳走賄御用」を仰せつかり、その後御納戸頭」や新徴組支配を勤めますが、明治維新の時は60歳、鶴梁はそのまま時流の外に押し出されてしまいます。
 この日記は歴史のほんの一コマです。でもそこには今でも「江戸時代」が生きています。そして、そこに生きているのが「人間」であることもわかります。今の時代と変わらない、生身の人間であることが。