他人の趣味をいろいろあげつらって悪口を言って喜ぶのは、あまり良い趣味とは思えません。
【ただいま読書中】『日本SFアニメ創世記 ──虫プロ、そしてTBS漫画ルーム』豊田有恒 著、 TBSブリタニカ、2000年、1500円(税別)
昭和38年は日本のテレビアニメの歴史にとって「特別な年」でした。1月に「鉄腕アトム」、10月「鉄人28号」、11月には「エイトマン」が放映され始めたのです。当時20代前半の著者は、そのうち2つ(アトムとエイトマン)のシナリオを書いていました。
せっかく入った慶応医学部を退学した著者は、昭和36年の第1回SFコンテストで佳作第3席を取り、手塚治虫さんと出会います(手塚さんは同人誌「宇宙塵」の会員だったのです。プロとファンの垣根が本当に低い、というか、シームレスにつながっていた時代なんですね。平井和正さんの『超核中』も思い出します)。
「鉄腕アトム」のアニメが成功し、各局は二匹目のドジョウを狙います。それに応募して採用されたのが、著者の親友平井和正。作品は「エイトマン」。「おい、手伝ってくれよ」「ああ、いいよ」で著者はテレビアニメの世界に足を踏み入れます。「SFアニメとはなにか」をテレビ局の誰も知らない状況で、話は転がり始めます。著者は、SFは(アメリカのペーパーバックで)大量に読んでいますが、シナリオの書き方は知りません(ずぶの素人の大学生なのです)。しかしTBSでも贅沢は言っていられません。連載14年でストックが豊富なアトムと違って、エイトマンは話もスタッフもゼロからのスタートです。「使えそうなもの」は何でも使う(あるいは育てる)しかないのです。
「古き良き時代」という言葉が浮かびます。当時はまだ「SFというジャンル」を確立する(世間に知らしめる)ことが、SFマニアたちの共通の願いでした。だから、たとえ自分ではなくて他の人であっても、その成功は喜ばしいこと、という雰囲気だったのだそうです。さらにその成功を後押ししてくれた人たち(たとえば「中一時代」に光瀬龍の「夕ばえ作戦」を、「漫画サンデー」に小松左京の「エスパイ」を連載することを(自分の首をかけて)決定した編集者たち)のことを著者は「恩人」と呼びます。当時SFは「一部のマニアのもの」「きわもの」でしかなかったのですから。
大学を卒業したものの、就職の当てもない著者を、手塚治虫さんが誘います。アトムのシナリオを書かないか、と。エイトマンを観て、著者のシナリオライターとしての力を買っていたのでした。提示された月給は6万4千円(ノルマは月1本のシナリオ)。著者はびっくりします。当時の四大卒の初任給はその1/4くらいだったのですから。著者は、原作の脚色ではなくてオリジナルのシナリオで勝負することにします。手塚さんに可愛がられ、のびのびと仕事を続けますが、やがて虫プロの中での居心地が悪くなり、著者はあとさき考えずにそこをやめてしまいます。次の仕事は「スーパー・ジェッター」、そして「宇宙少年ソラン」。
すべてリアルタイムで見ています。私は懐かしさに溺れそうです。こんな創作の苦労なんか知らず、私はテレビの前で毎週ただひたすら楽しい時間を過ごしていました。
「クリエイティビティー」という言葉が何回も登場します。それと同様に重要な「オリジナリティー」も。もちろん著者は「創る側」ですから、それらが重要なのは当然です。しかしアニメの場合には、その他の要素もたくさん混じり込みます。「絵になるか」「納期に間に合うか」「視聴率は取れるのか」「キャラクター商品が売れるか」……単純に「良いものを創りたい」に夢中になれていた時代を懐かしむ著者の口調には、一抹の寂しさが漂います。今、アニメはこの社会に完全に定着しています。だけど、その内側には、クリエイティビティーやオリジナリティーに対して愛情も敬意も抱かない人間がごろごろしている様子です。これは、たとえば手塚さんが望んだ形だったのか、と著者は言いたそうです。
【ただいま読書中】『日本SFアニメ創世記 ──虫プロ、そしてTBS漫画ルーム』豊田有恒 著、 TBSブリタニカ、2000年、1500円(税別)
昭和38年は日本のテレビアニメの歴史にとって「特別な年」でした。1月に「鉄腕アトム」、10月「鉄人28号」、11月には「エイトマン」が放映され始めたのです。当時20代前半の著者は、そのうち2つ(アトムとエイトマン)のシナリオを書いていました。
せっかく入った慶応医学部を退学した著者は、昭和36年の第1回SFコンテストで佳作第3席を取り、手塚治虫さんと出会います(手塚さんは同人誌「宇宙塵」の会員だったのです。プロとファンの垣根が本当に低い、というか、シームレスにつながっていた時代なんですね。平井和正さんの『超核中』も思い出します)。
「鉄腕アトム」のアニメが成功し、各局は二匹目のドジョウを狙います。それに応募して採用されたのが、著者の親友平井和正。作品は「エイトマン」。「おい、手伝ってくれよ」「ああ、いいよ」で著者はテレビアニメの世界に足を踏み入れます。「SFアニメとはなにか」をテレビ局の誰も知らない状況で、話は転がり始めます。著者は、SFは(アメリカのペーパーバックで)大量に読んでいますが、シナリオの書き方は知りません(ずぶの素人の大学生なのです)。しかしTBSでも贅沢は言っていられません。連載14年でストックが豊富なアトムと違って、エイトマンは話もスタッフもゼロからのスタートです。「使えそうなもの」は何でも使う(あるいは育てる)しかないのです。
「古き良き時代」という言葉が浮かびます。当時はまだ「SFというジャンル」を確立する(世間に知らしめる)ことが、SFマニアたちの共通の願いでした。だから、たとえ自分ではなくて他の人であっても、その成功は喜ばしいこと、という雰囲気だったのだそうです。さらにその成功を後押ししてくれた人たち(たとえば「中一時代」に光瀬龍の「夕ばえ作戦」を、「漫画サンデー」に小松左京の「エスパイ」を連載することを(自分の首をかけて)決定した編集者たち)のことを著者は「恩人」と呼びます。当時SFは「一部のマニアのもの」「きわもの」でしかなかったのですから。
大学を卒業したものの、就職の当てもない著者を、手塚治虫さんが誘います。アトムのシナリオを書かないか、と。エイトマンを観て、著者のシナリオライターとしての力を買っていたのでした。提示された月給は6万4千円(ノルマは月1本のシナリオ)。著者はびっくりします。当時の四大卒の初任給はその1/4くらいだったのですから。著者は、原作の脚色ではなくてオリジナルのシナリオで勝負することにします。手塚さんに可愛がられ、のびのびと仕事を続けますが、やがて虫プロの中での居心地が悪くなり、著者はあとさき考えずにそこをやめてしまいます。次の仕事は「スーパー・ジェッター」、そして「宇宙少年ソラン」。
すべてリアルタイムで見ています。私は懐かしさに溺れそうです。こんな創作の苦労なんか知らず、私はテレビの前で毎週ただひたすら楽しい時間を過ごしていました。
「クリエイティビティー」という言葉が何回も登場します。それと同様に重要な「オリジナリティー」も。もちろん著者は「創る側」ですから、それらが重要なのは当然です。しかしアニメの場合には、その他の要素もたくさん混じり込みます。「絵になるか」「納期に間に合うか」「視聴率は取れるのか」「キャラクター商品が売れるか」……単純に「良いものを創りたい」に夢中になれていた時代を懐かしむ著者の口調には、一抹の寂しさが漂います。今、アニメはこの社会に完全に定着しています。だけど、その内側には、クリエイティビティーやオリジナリティーに対して愛情も敬意も抱かない人間がごろごろしている様子です。これは、たとえば手塚さんが望んだ形だったのか、と著者は言いたそうです。