あまりの寒さに出した電気炬燵が使い始めてすぐに壊れてしまいました。これは私が独身の時から使っているもので……指折り数えたら27年前のもの。それでも未練たらしく分解してみましたが、目に見える断線とかネジが外れたとかはありません。さて、どうしよう。修理するか買い換えるか。買い換えるとやぐらが無駄になるので、電気カーペットを買ってやぐら部分はテーブル(と足をつっこんでぬくぬく)に使うか。
ああ、寒いと頭が働きません。まあこの頭は、暖かくてもどうせ働かないので、さっさと決断するしかないのですが。
【ただいま読書中】
『コーヒーとコーヒーハウス ──中世中東における社交飲料の起源』ラルフ・S・ハトックス 著、 斎藤富美子・田村愛理 訳、 同文館、1993年
イスラム地域でコーヒーが飲まれるようになったのは15世紀中頃でした。最初に「コーヒーを使用」したのはザブハーニーだ、いや、アッシャーズィーリーだ、などと複数の伝説がありますがあまり確かな証拠はありません。そもそも「コーヒー」という名称も、当時のワインの別称「カフワ」から(ワインの健全な代用品として)と言われていますが、地名の「カッファ」からかもしれません。著者は様々な史料に当たって、イェメンの特定のスーフィー教団の信徒の間でこの飲み物が最初に人気が出た、と推論します。
やがてコーヒーは教団の外、一般人の間に広まります。スーフィー教徒は神へ近づいて恍惚感を得るための補助として自己催眠や様々な(コーヒーを含む)薬物使用を行なっていましたが、コーヒーハウスで人々は健康的なお喋りに精を出します。しかし1511年、この「悪癖」に対して、メッカのマムルーク朝の代官から禁止令が出されます。まずはそういった集会が非合法とされ、ついで医学的見地からコーヒーは有害であると宣言されます。結局この禁令はうやむやになりますが、1544年にはオスマン帝国スルタンがコーヒー禁止の勅令を出します。メッカの人々は1日間その勅令を守り、翌日からいつもの状態に戻りました。
16世紀初めコーヒーはカイロに広がり、そこでも愛好者を得ると同時に反対運動も引きおこします。反対派は集団でコーヒーハウスに乱入し、店を壊し居合わせた人に暴力をふるいました。しかし結局人々の間に広がったコーヒー愛好を止めることはできませんでした。
ここで著者は「コーヒー反対運動の真の“原因”はなにか」に注目します。その原因は「コーヒー」ではなくて何か別のものではなかったか、と。
コーランでは、来世では「美酒の川」が約束されていますが、現世では酔っての祈りは禁じられています。で、コーランの解釈によって「ワインは“ハラーム(絶対的な禁止物)”」とされ、ワインを含む「ハムル」というジャンルの飲み物はすべて禁止とされました。ただ、この部分のコーラン解釈は数世紀の論争をもたらします。「酔う」とはなにか、「ハムル」の範囲の定義は、など。「楽しいもの」と取り上げられることに対する“抵抗勢力”が根強かったのかもしれません。
コーヒー反対論者ははじめ「コーヒーは人を酔わせる」としてコーヒーはハムルだから禁止、と主張しました。しかしそれは“事実”によって反駁されます。そこで次に「コーヒーは人体に有害」が持ち出されます。「人体に有害なもの」もコーランで禁止されているからです。しかし医者の間でも意見は割れました(これは、20世紀のコーヒーの健康への影響の研究で、医学者の意見が割れるのと同様、と著者は述べています)。さらにこういった医学的な議論は実は“二次的”なものでした。まず「コーヒーを禁止する」という結論が先にあって、「その根拠は何か」を求める努力だったのです。
コーヒーハウスがいつ頃発生したかは不明です。はじめはアラブで、ついでトルコで人気になったのは間違いがなさそうです(16世紀半ば、イスタンブールには600のコーヒーハウスがあったそうです)。当時のイスラム世界では「外食」は存在しませんでした。外での娯楽も。著者はコーヒーハウスが当時の人々の「外出したいという意欲」にぴったりマッチしたため興隆したと考えています。家庭でもコーヒーは飲めます。それでもコーヒーハウスに集まる人々。そこに「社交」が発生します。具体的には「おしゃべり」ですが。単なるうわさ話や趣味の話もありますが、中にはクーデターへと発展する政治批判もありました。芸能や賭博、売春も行なわれます。当局はそういった人々の動き(政治批判、反道徳的なもの)に神経を尖らせます。
中世のイスラム世界では「居酒屋禁止令」がたびたび出されていました。イスラムはアルコール禁止のはずなのにそんな禁止令がたびたび出るのは奇妙に感じますが、タテマエは「非イスラムのための施設」として存在可能で、実体はイスラムのはみ出し者がたむろして犯罪の巣窟になることが多かったからでしょう。当局からはコーヒーハウスも、居酒屋の類似施設のように見られたようです。つまり問題は「コーヒー」ではなくて「コーヒーハウスで行なわれる行為」またはその「可能性」だったのです。
ただ、権力を持つ人々が恐れたのはそういった「違法行為」そのものだったのかは実は疑問です。中世にムスリムが夜外出する先は、宗教関連以外では居酒屋か賭博場だけでした。後ろの二つは、真っ当なムスリムにとっては、自分の評判や魂ときには命を賭けねばならない場所でした。ところが
コーヒーハウスはそういったことを気にせずに夜でも出かけてたむろすることができる場所だったのです。これは、社会の基本的な部分(人の行動規範)が変質することを意味していました。当局はそれを恐れたのではないか、が著者の仮説です。さらにコーヒーハウスは「人をもてなすこと」も変質させました。それまで「もてなし」は自宅で家族や使用人をフルに活用して主人が自分の信用を賭けて贅を尽くしておこなうものでした。それがコーヒーハウスで気軽に安く手軽にできるようになったのです。これは、目立たないけれど、社会の「革新」でした。だからこそ叩くべき「シンボル」として、コーヒーは攻撃され、禁止され、でもしばらく経ったらあっさり復活しました。コーヒーとコーヒーハウスで変質した社会は、コーヒーを禁止されても元には戻らなかったのです。
「社会の変革」と言ったらついつい派手なもの(革命やそこまで荒っぽくなくても制度の変革、なんらかの社会的運動)を思ってしまいます。しかし、皆で集まってコーヒーをすすりながらわいわいやること、これもまた「社会の改革」だったというのは驚きです。保守主義者にはきっと悪夢だったことでしょうね。もしかしたら現代でもこういったさりげない社会改革はできるのではないか、と思います。というか、基本的に社会はそうやって少しずつ変わっていっているのではないかな。
かつてコンビニ反対論者が、青少年の風紀とか省エネとか理由を探してはコンビニの深夜営業に反対しているのを思い出しました。本当は「人の行動パターン」に反対したいけれど、それが困難なので目の前のモノに……という点で、かつて「コーヒー」「コーヒーハウス」に反対していた人と類似の反対運動なのかもしれません。
ああ、寒いと頭が働きません。まあこの頭は、暖かくてもどうせ働かないので、さっさと決断するしかないのですが。
【ただいま読書中】
『コーヒーとコーヒーハウス ──中世中東における社交飲料の起源』ラルフ・S・ハトックス 著、 斎藤富美子・田村愛理 訳、 同文館、1993年
イスラム地域でコーヒーが飲まれるようになったのは15世紀中頃でした。最初に「コーヒーを使用」したのはザブハーニーだ、いや、アッシャーズィーリーだ、などと複数の伝説がありますがあまり確かな証拠はありません。そもそも「コーヒー」という名称も、当時のワインの別称「カフワ」から(ワインの健全な代用品として)と言われていますが、地名の「カッファ」からかもしれません。著者は様々な史料に当たって、イェメンの特定のスーフィー教団の信徒の間でこの飲み物が最初に人気が出た、と推論します。
やがてコーヒーは教団の外、一般人の間に広まります。スーフィー教徒は神へ近づいて恍惚感を得るための補助として自己催眠や様々な(コーヒーを含む)薬物使用を行なっていましたが、コーヒーハウスで人々は健康的なお喋りに精を出します。しかし1511年、この「悪癖」に対して、メッカのマムルーク朝の代官から禁止令が出されます。まずはそういった集会が非合法とされ、ついで医学的見地からコーヒーは有害であると宣言されます。結局この禁令はうやむやになりますが、1544年にはオスマン帝国スルタンがコーヒー禁止の勅令を出します。メッカの人々は1日間その勅令を守り、翌日からいつもの状態に戻りました。
16世紀初めコーヒーはカイロに広がり、そこでも愛好者を得ると同時に反対運動も引きおこします。反対派は集団でコーヒーハウスに乱入し、店を壊し居合わせた人に暴力をふるいました。しかし結局人々の間に広がったコーヒー愛好を止めることはできませんでした。
ここで著者は「コーヒー反対運動の真の“原因”はなにか」に注目します。その原因は「コーヒー」ではなくて何か別のものではなかったか、と。
コーランでは、来世では「美酒の川」が約束されていますが、現世では酔っての祈りは禁じられています。で、コーランの解釈によって「ワインは“ハラーム(絶対的な禁止物)”」とされ、ワインを含む「ハムル」というジャンルの飲み物はすべて禁止とされました。ただ、この部分のコーラン解釈は数世紀の論争をもたらします。「酔う」とはなにか、「ハムル」の範囲の定義は、など。「楽しいもの」と取り上げられることに対する“抵抗勢力”が根強かったのかもしれません。
コーヒー反対論者ははじめ「コーヒーは人を酔わせる」としてコーヒーはハムルだから禁止、と主張しました。しかしそれは“事実”によって反駁されます。そこで次に「コーヒーは人体に有害」が持ち出されます。「人体に有害なもの」もコーランで禁止されているからです。しかし医者の間でも意見は割れました(これは、20世紀のコーヒーの健康への影響の研究で、医学者の意見が割れるのと同様、と著者は述べています)。さらにこういった医学的な議論は実は“二次的”なものでした。まず「コーヒーを禁止する」という結論が先にあって、「その根拠は何か」を求める努力だったのです。
コーヒーハウスがいつ頃発生したかは不明です。はじめはアラブで、ついでトルコで人気になったのは間違いがなさそうです(16世紀半ば、イスタンブールには600のコーヒーハウスがあったそうです)。当時のイスラム世界では「外食」は存在しませんでした。外での娯楽も。著者はコーヒーハウスが当時の人々の「外出したいという意欲」にぴったりマッチしたため興隆したと考えています。家庭でもコーヒーは飲めます。それでもコーヒーハウスに集まる人々。そこに「社交」が発生します。具体的には「おしゃべり」ですが。単なるうわさ話や趣味の話もありますが、中にはクーデターへと発展する政治批判もありました。芸能や賭博、売春も行なわれます。当局はそういった人々の動き(政治批判、反道徳的なもの)に神経を尖らせます。
中世のイスラム世界では「居酒屋禁止令」がたびたび出されていました。イスラムはアルコール禁止のはずなのにそんな禁止令がたびたび出るのは奇妙に感じますが、タテマエは「非イスラムのための施設」として存在可能で、実体はイスラムのはみ出し者がたむろして犯罪の巣窟になることが多かったからでしょう。当局からはコーヒーハウスも、居酒屋の類似施設のように見られたようです。つまり問題は「コーヒー」ではなくて「コーヒーハウスで行なわれる行為」またはその「可能性」だったのです。
ただ、権力を持つ人々が恐れたのはそういった「違法行為」そのものだったのかは実は疑問です。中世にムスリムが夜外出する先は、宗教関連以外では居酒屋か賭博場だけでした。後ろの二つは、真っ当なムスリムにとっては、自分の評判や魂ときには命を賭けねばならない場所でした。ところが
コーヒーハウスはそういったことを気にせずに夜でも出かけてたむろすることができる場所だったのです。これは、社会の基本的な部分(人の行動規範)が変質することを意味していました。当局はそれを恐れたのではないか、が著者の仮説です。さらにコーヒーハウスは「人をもてなすこと」も変質させました。それまで「もてなし」は自宅で家族や使用人をフルに活用して主人が自分の信用を賭けて贅を尽くしておこなうものでした。それがコーヒーハウスで気軽に安く手軽にできるようになったのです。これは、目立たないけれど、社会の「革新」でした。だからこそ叩くべき「シンボル」として、コーヒーは攻撃され、禁止され、でもしばらく経ったらあっさり復活しました。コーヒーとコーヒーハウスで変質した社会は、コーヒーを禁止されても元には戻らなかったのです。
「社会の変革」と言ったらついつい派手なもの(革命やそこまで荒っぽくなくても制度の変革、なんらかの社会的運動)を思ってしまいます。しかし、皆で集まってコーヒーをすすりながらわいわいやること、これもまた「社会の改革」だったというのは驚きです。保守主義者にはきっと悪夢だったことでしょうね。もしかしたら現代でもこういったさりげない社会改革はできるのではないか、と思います。というか、基本的に社会はそうやって少しずつ変わっていっているのではないかな。
かつてコンビニ反対論者が、青少年の風紀とか省エネとか理由を探してはコンビニの深夜営業に反対しているのを思い出しました。本当は「人の行動パターン」に反対したいけれど、それが困難なので目の前のモノに……という点で、かつて「コーヒー」「コーヒーハウス」に反対していた人と類似の反対運動なのかもしれません。