【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

甘栗

2009-12-14 19:20:09 | Weblog
 1ヶ月くらい前に注文していた甘栗が、やっと静岡県の甘栗店から届きました。注文殺到でなかなか焼くのが間に合わないのだそうです(なんでも1日に2トン売れているそうな)。さっそく電子レンジで30秒加熱して皮を剝けば、口の中が幸せで一杯になります。いや、本当に美味しいの。日本人で良かった、と感じる瞬間です。あ、でも、天津甘栗なんて言うくらいだから、甘栗は中国の方が本場なのかな? まあどちらでも良いです。美味しければ、それが正義。

【ただいま読書中】
食品偽装の歴史』ビー・ウィルソン 著、 高儀進 訳、 白水社、2009年、3000円(税別)

 何が「混ぜもの」か、はけっこう定義が難しいものです。ただ食品への混ぜものを禁止する法律の精神は単純です。「汝、毒を入れることなかれ」「汝、欺くなかれ」。ところが科学が巧妙に混ぜものをする手段を提供します。ですから本書の大きな柱は「欺瞞の科学 vs 欺瞞発見の科学」となります。
 まずは「1820年」。ロンドンに住むドイツ人化学者フレデリック・アークムは『食品の混ぜ物工作と有毒な食品について』というパンフレットを出版します。当時の飲食物には様々な混ぜ物がされていて、中には有毒な物もたくさんあったのです。たとえば野菜などの緑色を深めるために緑青を使う、とか。このパンフレットはベストセラーとなりますが、政府は動きませんでした。対仏戦争によって食料品の供給が途絶えがちであり、かつ、「政府による規制は商業の自由の侵害」「消費者の自己責任」などのうたい文句が力を持っていたのです。
 古代ローマでは、すぐに悪くなるワインをなんとかするために、様々な添加物を加えるのが普通でした。蜂蜜や海水のように(味はともかく)無害なものもあれば、鉛のように(味はよいが)有害なものもありました。鉛は、防腐剤であり、低質なワインを“高級ワイン”に変貌させる魔法の薬でした。だから1694年に鉛の毒性が発見され、ワインへの使用が禁じられたあとも、その使用が止むことはありませんでした。(1750年には「酢」製造のためにパリに輸入された腐ったワインに鉛が添加され「本物のワイン」として売られる事件があります)
 産業革命後のロンドンでの市場は「安かろう悪かろう」の天国でした。読んでいて唖然とする食品ごまかしテクニックのオンパレードです。特にその犠牲になるのは、貧しい者でした。ギルドが健在の時にはまだギルドの自浄作用が機能していました(不正がないわけではないが、目に余る者は特権を剥奪してギルドから追放)。しかし「近代化」によってギルドは解体され、国は「自由」を標榜して市場を傍観し、消費者は「自由競争」の中で生きることを余儀なくされていたのです。
 1850年に引退した医師のハッサルは、趣味の顕微鏡で砕いたチコリーの混ぜものがあるコーヒー粉を見て、その両者を鑑別します。「ランセット」の編集者ワクリーは、ハッサルの研究結果を(飲食物を購入した店名と住所も含めて)連続的に発表することにします。ここで重要なのは「混ぜものがない場合」もきちんと公表されたことです。ハッサルとワクリーが求めるのはパニックではなくて公正でした。(ついでですが、ハッサルが趣味として顕微鏡を始めたとき「そんなことが何の役に立つ?」とさんざん言われたそうです) 面白いのは、ランセットの記事に当該商品の宣伝文句もそのまま引用されたことです。「本物のコーヒー 混ぜもの無し」うんぬんかんぬん、のあとのその分析データ「大量のチコリーで混ぜ物工作が施されている」、と。その結果1860年に「混ぜ物工作禁止法」が制定されます。ただしこの法律は世界の何も変えませんでした。当局は調査を“許可”されただけで、罰せられるのは“意図的に混ぜもの”をしたことが立証された場合だけだったのです。みごとな骨抜き空文です。ただ、こうした社会的な運動によって、「混ぜもののない」あるいは「混ぜものをしている場合にはそれをきちんと表示した」食品が英国市場では増加しました。
 アメリカも、農業国から工業国になるにつれ、食品の質が急速に落ちました。食品偽装者と純正食品主義者の戦いは、英国では科学vs科学(または紳士vs紳士)でしたが、数十年後のアメリカでは商業vs商業となります。まずは「牛乳」。劣悪な環境で生産された粗悪な牛乳が、様々な混ぜもので倍以上に増える過程を読むと頭がくらくらします。ただそれは世界中で行なわれていたことで、パリ包囲戦の時に牛乳が入手できず母親がみな母乳を赤ん坊に与えたため赤ん坊の死亡率が40%“減少”したことが書かれています。粗悪な牛乳は子供を殺すものだったのです。
 第一次世界大戦中のドイツは「人はどんな偽食品を我慢して食べられるのか」の実験場になりました。すべての基本的な食糧が不足したため代用食品だらけとなったのです。(ある意味これは「偽装」ではありません。売る人は「これはドイツで買える唯一のもの」と言うのですから) 「鼠を食べるのは構わないが、我慢できないのは鼠の代用品だ」なんてことを書いた人もいます。トンボの羽から蛋白質を抽出しようという試みさえありました。その偽物文化は戦後、ナチス体制まで続きます(ナチスは大量消費文化を国民に約束したのですが)。
 第二次世界大戦後、アメリカではテクノロジーを生かした「現代的な食品」と食品添加物が市場に出回ります。それに対して、楽天的な立場と懐疑的な立場とが対立をするようになります。FDAは消費者保護のため化学的添加物の規制を行ないますが、次々登場する「新しい食べ物」すべてを管理することは不可能でした。肥満と栄養不足が同時にアメリカ社会で進行し、さらにダイエットブーム。食品運動家たちは、個々の添加物を相手にしたらきりがないため、「添加物が入っている食品」自体を攻撃の対象にするようになります。19世紀には「違法な食品」が攻撃の対象でしたが、20世紀には「違法ではない欺瞞」が問題とされるようになったのです。その武器はガスクロマトグラフィー・アイソトープ分析・質量分光器など化学分析でしたが、21世紀には戦列にDNA分析が加わります。
 ところがここで新たな問題が。「健康的な食品」の定義です。家畜の成育状況、植物の栽培状況なども勘案していかないといけなくなったのですが、殺虫剤の残留を問題にするとこんどは食物への昆虫(の破片)の混入の問題が浮上してきます。「有機」にこだわりすぎて偏執的になってしまった人の例や「偽装有機」の例も紹介されます。あまりに理想を追いすぎると、人間はかえって不幸になってしまうようです。
 本書には日本は登場しません。ちょっと残念な気もしますが、逆に言えばそういった本を書く余地が残されている、ということです。誰かやってくれないかなあ。