【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

中国製

2009-12-29 18:48:03 | Weblog
 最近職場のパソコンに中国製のソフトが入りました。「本当に大丈夫なのか」なんて言いながら使ったらけっこう使えます。
 ふと、昔日本がどんどん発展していた時代に、市場に急に登場した日本製品を胡散臭そうに眺めていたであろう欧米人の気持ちがちょっとわかったような気がしました。そう言えばVolvoも中国に身売りなんですって? そんな時代なんですね。

【ただいま読書中】『精神病院の社会史』金川英雄・堀みゆき 著、 青弓社、2009年、2800円(税別)

 精神障害に関して、古くは律令に「癲狂の犯罪者は刑罰を減免する」との規定があります。平安時代には精神障害者の「水治療」(滝に打たれる)が密教系の寺院で始まり、漢方療法は室町時代頃から主に浄土真宗系の寺で、そして読経療法が江戸時代に日蓮宗系の寺で行なわれるようになりました。
 本書では、東京およびその近郊での精神病院の歴史を、史料をもとに探っています。

 現在はハイキングコースとなっている高尾山は、江戸から甲府に抜ける最短ルート上にありますが、山道は険しく、昔は修験道の道場でした。表参道は一般の人がお参りをしたりしていましたが、山の裏側では、精神病者が長期逗留をして「水治療」を受ける場がありました。いくつもある滝のそばには旅館(一般人や症状の軽い病者用、明治時代には一日1円)や参籠所(病者用、症状の重い人用に格子窓のついた隔離室もある、明治時代には1日38銭)があり、宿泊客に精進料理などを出していました。逗留は短くて3ヶ月、長いと数年ということもあったそうです。そこで、修行者に混じって、精神病者が滝に打たれて“治療”を受けていたのです(まさか、冬も?)。激しい精神障害で暴れる人は強力が“介助”(強引に滝の下に連れて行って水に打たせる)もしていたそうです。本書に載せられた宿帳の写真には、病名欄までちゃんとあります。
 1889年には甲武線が新宿~立川~八王子まで開通し、高尾山詣でが楽になります。1927年(昭和2年)には、大正天皇の多摩御陵ができ、当局から「聖域近くに、精神病者が野放し状態で参集するのはいかがなものか」とクレームがつきます。その影響か、同年小林病院(精神科、内科)が開設され、1935年にはその近くの佐藤旅館が高尾保養院となり、それまで荷物を運んだり滝に打たれる介助をしていた「強力」が「看護人」として病院に雇われます。なにしろ精神障害者(それも症状のひどい人)の“取り扱い”には慣れているでしょうから、病院としては重宝だったことでしょう。
 1872年(明治5年)ロシア帝国アレクセイ大公が来日しました。それに合わせて東京府では、こじき浮浪者240人の一斉狩り込みが行なわれ、彼らを継続収容するための施設として東京府頓狂院が1879年に設立、86年に巣鴨に移り89年(明治22年)に東京府立巣鴨病院と改名されました。
 1919年(大正8年)には「精神病院法」が施行されました。内務大臣は、各道府県に公立の精神病院の設置を命じることができますが、「代用病院」として民間の精神病院を指定することができました。本来の「県立病院」の「代用」です。自分がするべき仕事を他人に肩代わりしてもらうのに「代用」と呼ぶとは失礼な話だと思いますが、昔はそのへんの“感覚”が違っていたのでしょう。(代用と言えば「代用監獄」なんて言葉もありますが、当時の精神障害者は警察の許可があれば、病院の“代用”として私宅に監禁することも許されていました。俗に言う「座敷牢」です)
 戦前に「精神病院」は約5万床になりましたが、終戦直後は5000床になっていました。理由は空襲による焼失と、軍の接収です。本土決戦に備えるため陸軍が次々入院患者を追い出して陸軍病院として確保したのでした。追い出された人がどうなったか? 精神症状、空襲、食糧不足、結核の蔓延……確証はありませんが、悲惨な末路だったのではないかと想像はできます。
 「衛戍病院」という耳慣れない言葉も登場します。「衛戍(えいじゅ)」とは「軍隊が一つの土地に長く駐屯すること」を意味し、衛戍病院は日本陸軍の衛戍地に建てられた病院のことです(1936年に「陸軍病院」と改名されました)。徴兵された人々はちょうど統合失調症の初発年代でもあり(公には否定されていましたが、戦争神経症もあったはずです)、初期対応をする衛戍病院精神科とその後方病院として継続治療を行なう精神病院は密接な関係がありました。ただ、その実態は明らかではありません。帝国軍人が精神病院に入院するなんてこと自体が「軍機」だったのでしょうね。