【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

謙虚

2009-12-12 18:28:20 | Weblog
 他人に対して「謙虚であれ」と要求する行為は、「要求」をしている時点ですでに傲慢です。

【ただいま読書中】
天文対話(上)』ガリレオ・ガリレイ 著、 青木靖三 訳、 岩波書店(岩波文庫)、1959年、★★★★

 まずは訳者のはしがきが笑えます。
「原書のもつ香気をどれだけ読者に伝えうるかについてははなはだ心もとない。しかし多くを望むまい。わが国の「ガリレイ学者」と目されている人びとが、おそらくは本書に一度も目を通すことなく、ガリレイの歴史的意義などについて論じうる現状では、この拙い翻訳も何ほどかの意義を持ちうることであろう。」 
……「聖書に書いてある」「アリストテレスはこう言った」を根拠として疑わない人々(しかも同時に彼らはコペルニクスを読もうとさえしない)に対して、ガリレオ・ガリレイは「現実」をつきつけることで「世界の新しい見方」を提示しました。ところがこんどは「ガリレオ・ガリレイはこう言った」と読みもしないで又聞きで偉そうなことを言う人が世界に充満する。そういった態度は結局、「ガリレオ・ガリレイが実際にはどのようなことを言ったかの“現実”を見ようとしない」点で、ガリレオ・ガリレイが否定しようとしていた「現実を見ずに何かがわかったと勘違いする態度」と構造的に同じではないか、と訳者は言いたいのでしょう。
 ちなみに本書のタイトルは正しくは「二大世界体系についての対話」(さらに正しくは「プトレマイオスとコペルニクスとの二大世界体系についての対話」1632年)で、グローバルにはこちらが通用していて、「天文対話」(または天文学対話)と言うのは日本ローカルだそうです。
 場所はヴェネツィア。登場人物は3人。コペルニクス派から一人、プトレマイオス・アリストテレス派から一人、そして偏見を持たない健全な常識人が一人。なかなか巧妙な人物配置です(ついでですが、場所も巧妙に選択されていますが、それが効いてくるのは下巻に入ってからです)。この三人が4日間にわたって続けた対話を記録したもの、それが本書です。
 まずは「ピタゴラス学徒は数学者か哲学者か」から話が始まります。「数」が「人が使うツール」なのか「神秘の存在」なのか、ですね。そして話は幾何学になり、三次元空間では「円運動の中心」は任意のどの点にでも置けることが示されます。なかなか巧妙な導入です。ついでに流れに従って「アリストテレスの前提には欠陥がある」とか、惑星の軌道計算の話に地球も含めてしまうなんて爆弾発言もさりげなく忍ばされていますが、著者は緻密な計算をして本書の構成を決定しています。こういった知性のきらめきを読むのは、快感です。さらに「論理学は哲学の道具(オルガーノ)」から話を「オルガン演奏」に持っていくところも気に入りました。とても文章が洒落ています。
 アリストテレスは「宇宙には変化はない」とし、また運動では「円運動」を「直線運動」の上に置きました。著者はそこからつつき始めます。まず取り上げられるのは新星や太陽の黒点。宇宙は不変ではないことは明らかです。また、ついでのように「月は平たい円盤ではない」ことも論理的に証明されます。木星の4つの衛星についても言及がされます。科学・思想・哲学・宗教・世俗の権力などが強く同一の価値観で結びついた世界で、観察と思考を武器として新しい考え方を提示するのは困難な道であることがわかります。おそらく著者は文字通り「一を聞いて十を知る」でコペルニクスの宇宙論を支持していたことでしょうが、それを他の人にわかるように説明することは「自分がわかること」とは別物です。その困難に挑戦する態度には敬服します。
 しかし、本書で「コリオリの力」についてもすでに考察がされているのには驚きました。しかし「慣性の法則」「運動(ベクトル)の合成」「重力加速度(とそれによる速度変化の計算法)」を17世紀の言葉で説明するのがこれほど困難な作業とは思いませんでした。思わず20世紀の言葉で「それはこういうことだよ」と説明したくなります。でもそれでは意味がありません。著者は同時代の人たちを納得させなければならないのですから。(ニュートンが「自分は巨人の肩の上に……」といったわけの一部が本書で実感できます)

 プトレマイオスの宇宙論(天動説)は“二次元”、コペルニクスのは“三次元”、と説明することができるのではないか、と私は思っています。前者は、地球を中心にした断面図や天球の表面に星を散りばめることで宇宙の説明と理解が可能です。しかし後者は「宇宙」を広がりのある空間として認識する必要があります。(で、アインシュタインは当然“四次元”) 「次元の拡張」にはなかなかついていくことが困難です。
 もう一つ。コペルニクスの主張で重要だと著者が考えているのは「感覚の否定」です。プトレマイオスの“正しさ”の根拠の一つは「不動の大地」という感覚です。しかしそれは欺かれた感覚であり、科学はそれとは違う根拠によって述べられなければならない、と著者は信じている様子です。

 本題とは離れますが、本書を読んで私は『ソクラテスの弁明』の読み方が少しわかったような気がしました(とくに「神託」の部分)。あちらもまた暇を見て読み返してみないといけないな。