【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

バレンタイン・デー

2012-02-14 18:45:59 | Weblog

 日本でこの風習が盛んになったのは、私の記憶では40年近く前となっています。当時は「一年でこの日だけは女の子の方から愛を告白してよい日」とされていて、その告白の印にチョコをプレゼントする、となっていたはず。「友チョコ」「義理チョコ」「告る」なんてことばがまだ存在しなかった時代のお話です。あの頃には、「チョコをプレゼントする」「チョコをもらう」は個人的な真剣勝負だったんですけどねえ。いつのまにこんな安っぽい“社会現象”になってしまったのやら。

【ただいま読書中】『毛沢東の朝鮮戦争 ──中国が鴨緑江を渡るまで』朱建栄 著、 岩波書店、1991年、3500円(税別)

 朝鮮戦争は国際政治に大きな影響を残しました。冷戦は世界規模に拡大し、アメリカは中国封じ込め政策を20年以上継続、朝鮮半島の分断は固定化され日本は再軍備と経済復興を得ました。著者は朝鮮戦争の「謎」について、北朝鮮からの亡命者の証言・アメリカの外交文書公開・ソ連のグラスノスチなどで解明を試みます。しかし、中国に関しては不明な部分が大きく残っています。
 たとえば中国の兵力。西側推定では3年間で総計500万人、中国発表ではその半分、損害は西側推定で60~90万、中国発表は36万6千(うち死亡は13万3千)。
 中国参戦により、各国は敬意を持つと同時に警戒心を強めました。中国では、大きな損害をこうむり台湾奪回の機会を失いましたがアメリカを国境から200マイルも押し戻したことで地位の強化ができたとされ、以後アメリカが主要敵と見なされるようになりました。では、朝鮮戦争参戦の政策決定は、どのように行なわれたのでしょう。
 まずは朝鮮戦争の開始。どちらが「責任者」かは、あまり重要ではない、という発言が紹介されます。双方が対立していて撃つ気満々のとき、相手を挑発して初弾を撃たせることは容易だから、と。ともかく“それ”は形式的には「内戦」と見ることができます。ただ、中国の内戦やアメリカの南北戦争と違うのは「外部環境」でした。東西冷戦です。ソ連・中国・北朝鮮は「内戦」を強く意識していましたが、アメリカは国際紛争と捉えます。すると38度線を越えての国連軍の北上は中国からは「国境線への侵攻」となります。さらに「東」「西」とも相手は「一枚岩」だと誤認していました。「前提」が間違っていたらそのあとの「想定」はすべて狂ってしまいます。
 北朝鮮による「祖国解放戦争」を中国は予想していました。ただしそれは「内戦」に終り、アメリカの介入はないと読んでいました。ただし、国民党を支援したアメリカに対する強い不信感は持っています。
 あ、ここで気がつきました。中国共産党が「台湾」に執着するのは、「一つの中国」が重要だから、だけではなくて「アメリカが軍事的ちょっかいを出す口実を減らしておきたい」ことが大きかったのかもしれません。ところが1950年に「台湾」と「朝鮮」を結びつけるトルーマン声明が発表され、中国はますますアメリカに対する警戒心を募らせていました。
 朝鮮戦争勃発は1950年6月25日ですが、少なくとも7月7日には毛沢東は中国と米軍が交戦する可能性を意識していました。しかし“戦場”が中国東北になるか朝鮮になるかが読めません。ともかく準備が必要、と東北に人民解放軍が集結を始めました。台湾とチベットさらにベトナムすべてをにらんだ「国防」計画です。(たとえばベトナムに逃げ込んだ国民党軍がフランスの援助を得て侵攻してくることを想定して、ホー・チ・ミンに軍事支援をしています。台湾とチベットは“後回し”とされました)
 8月に中国は参戦準備を本格化させますが、問題の一つは武器不足でした。日本軍の三八式歩兵銃を中心に装備している部隊もあったそうです。8月23日参謀の雷英夫が毛沢東と周恩来に国連軍の仁川上陸の可能性を報告します。毛沢東はシンプルに「有道理、很重要(道理がある、とても重要だ)」と答えたそうです。そのとき国連軍は釜山に追いつめられていましたが、戦力が集中できて守備は容易でした。対して人民軍は補給線が伸びきり猛烈な空爆をくらい国連軍を攻めあぐねている状態でした。そして、日本に集結した国連軍の動向からも、マッカーサーが上陸作戦を行なう、おそらくは仁川へ、という予想が立てられたのです。それは北朝鮮とソ連(北朝鮮はソ連製の武器で武装しており、ソ連の顧問が派遣されていました)に通報されましたが、無視されました。9月15日仁川上陸が行なわれ、形勢は逆転します。マッカーサーは中国参戦はないと読んでいました(自分たちが中国国境を越える気がないことは伝わっている、と思っていたのです。しかしそのメッセージは中国では謀略と思われていました)。毛沢東は軍の名称を「義勇軍」とします。それは、「正規軍の偽装」と批判はされましたが、アメリカに対して「中国国境を越えるな。対米全面戦争をするつもりはない」という意思表示でもありました(それがアメリカにきちんと伝わったかどうかは……)。
 総司令官に林彪を指名したら、本人ににべもなく拒否された、なんてのは私には興味深いエピソードです(林彪失脚後にこれは「毛に対する“不敬罪”の証拠」として扱われますが、当時毛沢東は林彪を深く信頼していて、その後も重職に就けています)。軍事や外交だけではなくてイデオロギー面でも激しい論争が行なわれます。それは共産主義者には当然必要な手続きですが、私には「そんなことをしている場合か?」という疑問しか浮かびません。会議では即時出兵に対する反対者が多く大論争が行なわれますが、毛沢東は反対を押し切ってしまいます。そこに「ゲリラ戦をするか亡命政権になるか」の金日成の“方針”や、「ソ連にではなくて中国にアメリカの矛先を向けさせたい」スターリンの思惑も絡んできます。
 ともかく、制海権も制空権もなく、武器装備も圧倒的に貧弱な「中国義勇軍」が動き始めます。全面戦争を望まない“上”とは違う思惑を前線指揮官は持っていました。圧倒的な機械化部隊には、とにかく「数」で対抗するしかない、と。そこでまた激論と方針変更が行なわれます。そして10月19日がやってきます。中国軍は続々と鴨緑江を越えます。マッカーサーは中国参戦はないものと想定し、東西戦線の真ん中に広いギャップを作り中部の韓国軍を突出させました。中国軍はその「隙」を見逃さず、当初の「防御戦」の構想を捨て、攻勢に出ます。
 後から俯瞰したら「ボタンの掛け違い」によって「歴史」が作られることがよくわかります。しかし、「ボタン」はやり直せますが、歴史はやり直せないんですよねえ。ここから人類が学ぶべき“教訓”は何でしょう。個人と個人のコミュニケーション、国と国の外交の重要性? それが簡単にできたら苦労はないのですが……