【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

震災後

2012-02-29 19:06:27 | Weblog

 口では「絆」「復興」「支援」。
 態度は「風評被害」「瓦礫は受け入れ拒否」。

【ただいま読書中】『逃げる百姓、追う大名』宮崎克則 著、 中央公論新社(中公新書1629)、2002年、720円(税別)

 江戸時代、各地の大名は「走り」の禁令を出していました。
 「走り」(欠落・逐電・退転)とは、百姓が許可なく土地を離れて別の土地に移り住むことです。百姓に走られると生産力が落ちるから、大名は困ります。だから禁令を出すのです。禁令があると言うことは「それ」が存在する、ということです。
 11世紀後半から「逃散」というものが日本にはありました。これは「村を挙げての労働争議」です。村人が神水を飲んで団結し、山などに籠ります。帰って欲しければ年貢をまけろ、と要求をし、それが叶えられたら帰村します。対して「走り」は、逃散との厳密な区別は難しいのですが、多くは個人的な逃亡で村に帰ることは前提となっていませんでした(18世紀に一応そのように定義されています)。
 大名は、自領内での走りなら自分で対応できますが、他領に走られると自力では対応できません。そこで、大名間で「人返し」の協定を結びました。また「還住(げんじゅう)優遇策」を採りました。もとの地に帰って住んだら、年貢や賦役を免除したりするぞ、と(「還住」は1603年の「日葡辞書」(イエズス会編纂)に載っているそうです)。ただ、「人返し」と言っても、どこそこの誰を返せ、という指名は逃げられた側の責任ですし、指名されたものが全員返されたわけでもありませんでした。走り者を受け入れた側としては「労働力」を得たわけですから、ほくほくの藩もあったわけです。また、大名同士の関係(仲の良さ)も影響します。仲が険悪だと、交渉も難しくて幕府に仲介を頼んだりしています。
 訴訟関連の史料の分析も面白い、というか、「工事」と書いてあったので「普請関係」に分類されていた史料が実は「公事」(走り者の返還訴訟記録)だった、なんて話からして笑えます。走る者の不満は、年貢だけではなくて、夫役の過重であったこともこの書類からわかります。名古屋城普請に徴用された人夫たちに多くの死者や走りが出ています。また、人身売買が堂々と行なわれていることもわかります。たとえば細川領では、領内での人身売買は禁止されていますが、「例外」として他領者はOKなのです。
 ここで著者は「走り先」(走り者を受け入れる側)の検討を始めます。ここで示される史料によると、特定の時期や特定の村への集中的な「走り」はありません。地縁や血縁を頼りにばらばらと散発的に継続しています。移動距離は大体1~2日行程(50~60km)圏内。走り者の多くには少しとはいえ土地が与えられ「下人」ではなくて「本御百姓」になるものが結構な割合でいました。本書では、本来の百姓が走ったために土地が空いてしまった場合、そこに他国からの走り者を入れて耕作をさせる、という例が紹介されています。村にとっても、連帯責任で年貢を納めるのに、無主地があるのは負担ですからたとえ他国からの走り者(細川領では「牢人」と呼ばれました)であっても、“労働力”は歓迎でした。たとえば慶長年間の近江国の検地帳では、耕作地の1割くらいが「失人」によって放棄されていたのです。また、新田開発にも新しい労働力が必要です。ですから「ウエルカム」なのです。
 ただ、17世紀後半になると、生産力が上がり人口が増え始め、百姓は定着する傾向を見せるようになります。すると大名は「走り」に対する興味を失い始めます。たとえ少数の走りが出ても、年貢は村の請負にすればいい、と。 さらに、家臣の知行地が細分化されて存在することも話をややこしくするため、「村の代表」を通しての支配になっていきます。すると定着農民側の行動も、「走り」から「一揆」へと変化していきました。
 江戸時代の武士が必ずしも知行地と密接な関係を持っていなかったことは19日の読書日記に書いた『武士の家計簿』に詳しく指摘されていました。そして、農民もかつては必ずしも「土地に縛りつけられた存在」ではなかったようです。日本の「封建制」というのは、実はなかなか面白いものだった様子です。