時々「ある地方でどの河川が汚れているか」という“ランキング”が発表されることがあります。で、そのニュースで「昨年最下位だった○○川が今年は一位順位を上げて最下位を脱出しました」なんてことを報じることもあります。だけど、ここで重要なのは「ランク」ではないと私は感じます。もし「○○川」が水質浄化のために何か努力をしてそれが報われたのだったらその「努力」を報じればいいけれど、そうではなくて、○○川と交代で最下位に落ちた××川が昨年よりひどく汚れただけで○○川のBODの数字は昨年と変わらないのだったら、それは「○○川の手柄」ではないわけですから。
【ただいま読書中】『紅茶スパイ ──英国人プラントハンター中国をゆく』サラ・ローズ 著、 築地誠子 訳、 原書房、2011年、2400円(税別)
アヘン戦争は、二つの植物(ケシとチャノキ)をめぐる戦争でした。どちらも当時のイギリスにとってはなくてはならないものでした。アヘンはインド経営の資金源で、茶税は英国本国経営に必須のものだったのです(インド植民地から上がる膨大な利益は、ほとんどインド周辺での戦費に消えていました)。アヘン戦争後の南京条約で、イギリスは香港の割譲と5つの貿易港の開港などを得ます。それまで中国での活動を厳しく制限されていたイギリスは、中国内陸部への手がかりを得たのです。前途は洋々……ではありません。イギリスでは「中国でアヘンが合法化される(自分で生産する)」という噂が囁かれます。そうなればインドからの輸出(つまりは財源)が激減します。ならば「茶」を手に入れなければなりません。
世界中から収集される植物の重要性が知れることによって、19世紀に、かつての(慎ましやかな)園芸家は、冒険活劇の主人公(それこそインディ・ジョーンズ)のような「植物学者」に変貌していました。中国の「茶」を入手するために必要な人材は、まさにそういった「植物学者」だったのです。たとえば、美しく希少な植物を発見する能力だけではなくて市場価値の高い植物を発見する能力に恵まれたロバート・フォーチュンのような。
1843年(アヘン戦争終結の翌年)から3年間、フォーチュンは中国北部を旅し大収穫を上げて帰国しました。それなりの名声を得たフォーチュンですが、彼に次のミッションが提示されます。チャノキの入手です。それも、生きた状態で。1848年フォーチュンは再度中国に入国します。中国人に変装し茶の産地に詳しい中国人を供として、数千本の苗木とその数倍の種、さらに国家機密である栽培技術と熟練技術者を入手するために。さらに「紅茶と緑茶は、品種が違うのか、製法が違うのか」という疑問に回答を得る必要もありました。
中国潜入の旅は、命を賭けた珍道中となります。首尾良く苗木と種を手に入れますが、インドへの輸送は成功しませんでした。フォーチュンは二回目の旅へ。一回目は鎖国下の中国での秘密旅行という危険が大きかったのですが、二回目はさらに清朝政府の明白な弱体化という要素が加わります。各地で内乱や暴動が起きているのです。武夷山脈への旅でフォーチュンは「茶摘み」の重要性にも気がつきます。チャノキだけではなくて「茶の文化」も移植しなければならないようです。しかし、公式には「中国人」はすべて「皇帝陛下の持ち物」ですから、技術者の移住は「皇帝からの盗み」となります。もちろん非公式には、クーリー貿易(中国人労働者の“輸出”)は行なわれていたので、当然仲介業者もいるわけで、フォーチュンはそこに依頼するだけで契約を何件も得ることができました。おやおや、もっと劇的な事件でもあるかと思ったのですが。ところが最初の労働者は使い物になりませんでした(イギリス側にも(重大な)責任があるのですが)。
最終的にフォーチュンはついに「チャノキの輸送」に成功します。彼は「ヒマラヤ産の茶の父」になったのです。そして数十年後、インドの茶産業は中国を凌駕し、インドはイギリスにとって不可欠な“資産”となりました。紅茶はイギリスで「贅沢品」から「大衆でも手が届くもの」になります。紅茶に入れる砂糖を求めて、別の地域が植民地になります。大英帝国は拡張します。中国は(「茶」だけのせいではないでしょうが)世界での重要性をどんどん減じてしまいます。輸送業も変化します。新茶を運ぶため、快速船(ティー・クリッパー)が開発されます。輸送の時の「バラスト」として中国磁器が船底に詰めらてましたが、その美しさがヨーロッパでの磁器産業を刺激します。
最近は残念ながらあまり贅沢ができないので紅茶の新茶にも縁が遠くなっていますが、もうすぐオータム・フラッシュのシーズンですね。ひさしぶりに紅茶の新茶を飲んでみたいなあ。