【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

お墓

2013-04-14 06:50:00 | Weblog

 墓をあばくのは古今東西どんな社会でも褒められた行為ではありません。しかし「発掘」だと褒められることがあります。では、お墓の発掘と墓あばきとの間の境界線は、いったいどこに引けるのでしょう? その墓が、現在生きている人の誰かにとってはまだ大切な存在であるか、ただの遺跡としてだけ存在しているものか、で分けてよいかな?

【ただいま読書中】『墓と埋葬と江戸時代』江戸遺跡研究会 編、吉川弘文館、2004年、6000円(税別)

 近世のお墓の発掘記録では、土葬された死体の恰好は様々です。あぐらをかいた姿勢で坐っていたり、手足を折り曲げてになっていたり(その場合でも、仰臥位や側臥位があります)。これは棺の形態による差でしょう。木棺が腐っていても、死体の恰好からお棺の形が推定できる場合もあります。
 伊達政宗は70歳で没しました。束帯姿の遺体は、記録では棺に水銀・石灰・塩を詰められて江戸藩邸を出発。仙台で遺体を乗せた駕籠ごと埋葬されましたが、そのあと別に空の棺を焼いてその灰を「灰塚」と呼ばれる塚に納めています。発掘では、棺の中から石灰は検出されましたが、水銀・塩は検出されませんでした。副葬品は、武具はもちろんですが、鉛筆などの文房具やブローチ、日時計もありました。“そんな趣味の人”だったのでしょう。二代忠宗の棺からは記録通り石灰と水銀が検出されています。
 堺は近世に江戸幕府の天領となり、町割りが再編成され、寺院は都市の東にまとめられて寺町を形成しました。それ以前、中世の寺院の場所や中世の墓所については詳しい資料がありません。
 そして、江戸の下町。地方から流入する労働者たちは、膨大な数に上っていました。口入れ屋(派遣元)を通じて様々な職業に就いていた彼らの多くは「人別外」の存在であり、当然旦那寺は持ちません。そこで彼らが江戸で死んだ場合、口入れ屋の旦那寺に「投げ込み」(非常に簡便な埋葬)が行なわれていました(「花の会投げ込みといい叱られる」という川柳が紹介されています。これは花の「投げ入れ」と死体の「投げ込み」の混同が題材となっています)。これを著者は「墓標なき墓地」と表現しています。百文の施しで墓地の片隅に墓石を立てることができた庶民も、それで安心はできません。3年間つけ届けが途絶えたら「無縁墓」として「掘り捨て」「発き捨て」ると宣言している寺もあったのです。これはひとえに、「過剰な人口」と「土地不足」によるものでしょう。
 墓穴を掘るときには棺より大きめに穴を掘るという重労働が必要ですが、そこで、日本人の体格と棺の大きさとそこへの死体の納め方が重要になってきます。日本人成人の平均身長は、縄文時代には男157~159cm/女147~151cmで、古墳時代にそれぞれ163/152となり、以後明治まで縮んでいきます。古い骨で見るかぎり、江戸時代が一番日本人が小柄だった時代、ということになります。なんででしょうねえ? ともかく江戸時代には直径60cm高さ55cmの早桶で埋葬がされることが多かったようです。なんだかとっても窮屈で、とても安心して死んではいられないような気がします。