江戸時代中期以降、幕府や各大名は「借金」に苦しんでいました。貨幣経済がどんどん進んでいたのに、政治の方は「米」を「貨幣」とする経済体制で動いていたことがその主な原因と言って良いでしょう。「予算決算」の概念もなく、収入はお天気次第で、でも支出は際限なく増えるのですから「借金」は当然の結果とは言えます。要は「政治」が「経済の変化」に対応できていなかったわけです。
20世紀末から、各国政府は「財政赤字」で苦しんでいます。これは「グローバル経済」と「国ごとの財政」とのミスマッチが一因、と言っても良いでしょう。これまた「政治」が「経済の変化」に対応できていない、と言って良いと私は考えています。「個別の国の実体経済」に「貿易黒字(赤字)」だけを加えて考える19世紀型の経済感覚では、複雑な多国間の貿易と秒単位で動く為替市場と世界規模の金融市場に対応するのは無理なのです(というか、19世紀末にすでに「大英帝国」では「19世紀型の経済」は破綻していました。だから「帝国」が没落して、東洋の小国と「同盟」を結ぶ必要が生じたわけです)。
もし私のこの想像が当たっているのなら、「輪転機を回してじゃんじゃんお札を刷ればいい」なんて言うのをやめてよほど発想の転換をしない限り、日本の財政赤字が改善する見込みはほとんどない、ということになりそうです。
【ただいま読書中】『伴大納言絵巻の謎』倉西裕子 著、 勉誠出版、2009年、2400円(税別)
貞観八年(866)閏三月十日、京都の応天門が焼失しました。この「火災」は後に「事変」へと展開します。放火の犯人としてまず左大臣源信が告発されますが無罪となり、ついで大納言伴善男が逮捕されて犯人と確定されました。結果として古くからの名家大伴氏(伴氏)は没落し摂関政治が確立することになります。その300年後、後白河法皇のサロンで「伴大納言絵巻」が制作されました。ところがこの絵巻には謎の人物が3人描かれ、さらに伴大納言自身の姿は描かれないという「謎」がありました。
内裏の朝堂院は国家機能の中枢ですが、その「正門」が応天門でした。それが焼失したのですから、都は大騒ぎです。右大臣藤原良相と大納言伴善男が「これは左大臣源信に罪がある」として兵を動かし源信の邸宅を囲みます。信は門を閉ざして引き籠もりますが、その騒ぎを知った太政大臣藤原良房は清和天皇にいそぎ奏上。天皇から「信を許す」という宣旨が下されます。
良房にとって、源信の失脚は、藤原家の氏の長者の後継者問題に関わる重大事でした(詳しくは本書をお読み下さい)。だからこそ良房はあたふたと走り回ることになってしまったのです。
伴善男は大変優秀だが性格は怜悧で同僚でも平気で攻撃する人間でした。仁明天皇にはその才を愛され、異例の出世を遂げていました。ただしその出世には、帝の寵愛だけではなくて、病の流行や、善男によって企まれた冤罪事件なども効果を示していました。そして、「異例の出世」は、周囲に波紋を広げます。貴族同士の足の引っ張り合い、摂関家の内紛、天皇家の後継問題などが複雑に絡み合って、緊張が高まっていきます(私は「保元・平治の乱」の時の都の複雑な状況を思い出しました)。さらに流行病、富士山や阿蘇山の噴火などで、世情・人心は穏やかならざるものとなっていきました。
伴善男にとって嵯峨源氏は昔からの“政敵”でした。右大臣藤原良相にとっても「上」の左大臣が消えるのは願ってもないことです。さらに、嵯峨源氏を代表とする親百済派を朝廷から一掃したい親新羅派の野望もそこには見えます。頭の回転が速い伴善男にとって、応天門の焼失は“一大好機”でした。彼の謀略は即座にスタートします。しかし、謀略を企てるのは、一人ではありませんでした。緊張が高まった都では、いくつもの謀略がその爆発の時期をじっと窺っていたのです。源信を陥れようとした伴善男に対する“反撃”が始ります。なぜか藤原良相は“蚊帳の外”に置かれます。この“事変”には、外から見ていると明らかに不自然な動きがいくつもあるのです。
そして300年後、平清盛に圧迫されている後白河法皇の“サロン”で、「伴大納言絵巻」が制作されます。なぜこの時期に? そこにもまた「歴史の謎」が秘められているのでした。ここで、私は自分が「保元・平治の乱」を想起していたことが、あながち的外れな連想ではなかったことに気づきます。本当に「歴史は繰り返」していたのかもしれません。