「口は一つ、耳は二つ。だからしゃべる時間の倍聞きなさい」ということばがあります。たしかにそれで「数」は合ってますし「自分がしゃべるばかりで他人の話を聞こうとしない人間」は嫌われますから「正しい人生訓」ということはできるでしょう。ただ私が気になるのは「目も二つある」ことと「頭は一つ」ということです。
【ただいま読書中】『夜中に犬に起こった奇妙な事件』マーク・ハッドン 著、 小野芙佐 訳、 早川書房、2007年、1300円(税別)
主人公のぼく(クリストファー)は、他人の感情がわからず他人と会話をすることが苦手です。嘘をつくことができません。新しい状況に適応できません。すごい記憶力を持っています。嫌いなのは黄色と茶色と知らない人と知らない場所。好きなのは赤と素数。得意なのは数学。特殊学級に通っています。
明記されてはいませんが、クリストファーは自閉症でしょう。ただし、明らかに知能は高水準なので、おそらくアスペルガー症候群。彼は「殺人ミステリー」を書くことにします。それが本書です。ただし、クリストファーは嘘(フィクション)を書くことができません。そこで本当の話を書くことにします。近所の家で、園芸用のフォークで犬が刺し殺されました。その犯人を捜して、それを記録しようというのです。
自閉症の一人称の記述は、自閉症ではない読者にとってはある意味“異質な世界”の体験です。読者は世界を違った目で見ることを強いられるのです。たとえばこんな会話が登場します。
そしたらその男のひとがいった、「片道、往復?」
それでぼくはいった、「片道、往復というのはどういう意味ですか?」
そしたら彼はいった、「行きだけなのか、それとも行って帰ってくるの?」
それでぼくはいった、「ぼくはあっちに行ったら、そのままそこにいたいです」
そしたら彼はいった、「どのくらいのあいだ?」
それでぼくはいった、「ぼくが大学に行くまで」
そしたら彼はいった、「それじゃ片道だね」
ところが読んでいくと、明らかに「正常な世界」の方も異常であることに気づかされます。たとえば夜中に近所の家の犬がフォークで刺し殺されていたことを非常に問題視する人がほとんどいません。むしろそのことを追及しようとするクリストファーの行動の方が周囲には問題視されています。それは、一体、なぜ?
さらに、クリストファーは、死んだはずの母親から手紙が届いていることを発見します。クリストファーは混乱します。死んだ人間は手紙を書けないのですから。さらに犬を殺した犯人もわかりますがそれはクリストファーには嘔吐と思考停止を強いる人物でした。こうしてクリストファーは「受け入れ難い“真実”」に直面させられる事態となり、クリストファーはあらゆる可能性を考慮の上「一人でロンドンに行く」ことを決心します。上記の会話はロンドンに行く切符を買うために駅の窓口で駅員とかわしたものです。
視界を低下させる眼鏡と耳栓をし手足に錘を縛りつけて歩くという「老人の体験」をするプログラムがありますが、本書は「自閉症の体験」をことばによってさせてくれるという画期的な“プログラム”です。しかも「正常人」の“異常さ”まで体験できるという“おまけ”つき。全世界で一千万部も売れた、というのは頷けます。お勧めします。強く強くオススメします。