1990年代後半に中国に行ったことがありますが、そこで「毛沢東ってどんな人だったんです?」と聞いたら、「あんなひどい奴」と吐きすてるように言われて驚きました。絶対的な権力者だったはずですが、権力を失ったら“そんな評価”になってしまうんですね。だけど生きている内はそんなことは一切できなかったわけです。独裁者が独裁者であることができるのは、一体なぜなんだろう、と感じてしまいました。もちろん私も独裁国家に生きていたら、粛清されるよりはされない方が良いから、節を曲げてしまうだろう、という「確信」はありますが。
【ただいま読書中】『毛沢東の私生活(下)』李志綏(リチスイ) 著、 アン・サーストン 協力、新庄哲夫 訳、 文藝春秋、1994年(95年5刷)、1942円(税別)
「共産主義」の実現のために「食料無料配給」や「人民公社」を実現しようとしたのに失敗した毛沢東は“責任者探し”(と政敵潰し)を始めます。今度やり玉に挙がるのは「反党分子」です。ストレスから著者は胃潰瘍になりますが、その頃には毛沢東に対する絶対的な忠誠心が揺らぐようになっていました。政府の外から見る毛沢東のイメージと現実の姿のギャップがあまりに大きすぎたのです。さらに、地方巡察で目撃した食糧危機で苦しむ人民と、相も変わらず宴会でご馳走をむさぼる自分たちのギャップにも著者は苦しみます。しかし、そのご馳走を拒絶したら現体制に不平を持つ「反党分子」として告発されることを覚悟しなければならないのです。生き残るため著者は良心を“殺し”ます。
毛沢東は、報告は「目標は達成された」なのに、現実には食糧危機が起きていることが理解できませんでした。「右派」と「反革命分子」と「封建的要素」が攻撃され、多くの人が下放(追放)されます。党の方針は大きく変更されます。工業化を(一時)あきらめ、まずは食糧増産を、となったのです。
毛の女好きも著者を悩ませます。絶対的な権力者ですから倫理面の問題を問うのではありません。主治医として、性病が問題なのです。著者は女性たちを治療します。しかし、毛自身は「自分は困っていない」と治療を拒否。せめて陰部をきれいに、と言っても入浴も寝具の消毒も拒否。結局毛は死ぬまで若い女性に次々病気をうつし続けることになります。
飢饉により、都会から住民が田舎に移動します。しかし田舎でも状況は厳しく、数百万人が餓死することになりました。それを改善するために現実主義的な路線変更が唱えられます。しかし毛沢東は、社会主義を貫徹するべきだと主張していました。党は内部分裂状態となります。毛沢東は「敵」を数え続けます。それらの人は、数年後に文化大革命でひどい目に遭うことになるのです。
1962年、毛沢東は「社会主義のもとでも階級は存在する、だから階級闘争が必要である」と宣言します。国の惨状を救おうとした毛沢東に対する異議申し立てはすべて消滅します。主席と意見が一致しないことはそのまま「反革命」や「走資派」のレッテルを貼られることになるのです。66年のプロレタリア文化大革命の序曲が始まりました。
まずは毛沢東の個人崇拝の開始です。共産党の内部の“抵抗勢力”があまりに大きくなったので、人民を味方につけようという作戦。毛沢東語録が1964年に発行されたちまちベストセラーになります。現実的な経済再建よりも、イデオロギーの純粋さを競う競争(狂騒)が始まったのです。
毛の“ターゲット”は、小平や劉少奇など党の最高幹部でした。しかしいつものやり口で、彼らの手足となって働く中間幹部を毛はたたきます。文化大革命が始まる前から、著者はすでに多くのものを目撃していました。たとえば毛沢東から「もっとも親しい戦友」と讃えられた林彪の実像とか。「絶対権力は絶対に腐敗する」なんて言いますが、著者が見たのは「腐敗した権力者たち」と、彼らが繰り広げるおどろおどろしい権力闘争だったのです。「腐っている」だけに、この権力闘争を読んでいると吐き気がしてきます。
文革が始まると、毛は(いつものように)引きこもりをします。毛の不在で「蛇」が穴から出てくるのを待って、それをまとめて叩く戦術です。さらに紅衛兵の活動を「造反有理(造反は正しい」と褒めて煽るため、全国に「造反」の嵐が吹き荒れます。「反逆者」がでっち上げられ、反逆者の家族や友人たちも攻め立てられます。昔の西洋の「魔女狩り」のイデオロギー版です。
毛の不安と心身不調とパラノイアは悪化します。一箇所に長くいることができませんが、これは秦の始皇帝が各地を転々としたことを想起させます。林彪と江青は造反派の実権を握り、彼らのそれまでの心身の不調さはどこかに消えて絶好調となっています。毛沢東も保守的な党幹部や委員会(つまりは共産党の理念に忠実な人々)を打倒するために造反派に肩入れし、解放軍をそのために導入します。
各所で「武闘」が発生します。そして、江青の著者に対する攻撃も激しさを増します。これまでは毛沢東の威を借りてやっつけようとしていたのですが、文革で「自分の権力」を手に入れた江青は自力で著者を葬ろうと決心したのです。著者の“保護者”は毛沢東だけ。しかし毛沢東と著者の関係もぎくしゃくしていました。江青の“大物ターゲット”は周恩来首相です。その攻撃に対し、周恩来は江青支持を明確にすることで保身をします。江青に反撃したら毛沢東から攻撃されることが目に見えていたからです。権力中枢はメンバーをどんどん入れ替えていきます。毛沢東の寝室を訪れる若い女性もどんどん増え、複数の女性を相手にすることが普通になります。
外交面で毛は著者を仰天させます。「遠交近攻の策」です。中国を取り巻く「近くの敵」、つまりソ連・インド・日本に対抗するために「遠」である「アメリカ」と友好関係を築こう、という構想です。公には米国に対する非難は続け北ベトナムへの支援も継続しながら、舞台裏ではニクソンとの交渉が進められていました。ニクソンの世界戦略にもこれは利益のある取引でした。
「林彪事件」のあと、毛沢東は、文革で追放したかつての最高幹部たちと和解する道を探り始めます。林彪を“悪者”にして、かつて彼が批判・非難・追放した人たちは実は党に忠実だった、と主張する手法が採用されます。そして毛沢東は重体となります。著者と江青の目の前で後継者に指名されたのは(「自分を」という江青の期待に反して)周恩来首相でした。ニクソン訪中の三週間前です。毛は治療を頑強に拒否、江青は「主席は病気ではないのに主治医が病気だと騒いでいるだけ」といった口の下で「こんなに重体になったのは主治医の手抜かりだ」と著者を責めまくります。しかしやっと毛から治療開始の許可を得、著者はニクソンとの会見に毛の体調を“間に合わせ”ます。
さらに大きな権力を得るために江青は「批林批孔」キャンペーンを始めて周恩来を「現代の孔子」として非難します。“バランス”をとるため毛はかつて追放した小平を副首相に復帰させます。毛沢東の言葉に逆らうことがどのような結果を招くのか、江青は身近でしっかり見ていたはずなのに、そこから“教訓”を得ることはなかったようです。彼女は「自分の権力」にしがみつこうとします。それが「毛沢東の手のひらの上」でしかないことを無視して。毛沢東は「上海四人組」に対する非難と警告を発します(これが毛沢東死後に文革「四人組」というレッテルになります)。
著者はついに毛沢東が筋萎縮性側索硬化症である、と診断します。有効な治療法はありません。
周恩来が死亡し、第一次天安門事件が起きます。周恩来追悼のために数十万人の人々が集まったのが「反革命分子」としてまとめて鎮圧されたのです。
毛沢東の医者嫌いは徹底しています。癌の治療でさえ「自然に治るか、不治の病か、どちらかだから癌の治療は無意味だ」と断言して、党幹部の癌治療さえ却下します。自分の信念を自分に適用するのはけっこうですが、他人にも強要するのはどうなんでしょうねえ。
著者は「毛沢東の主治医」ですが、毛沢東は最初から著者に「秘書としての機能」を求め続けています(著者はそれに気づかないふりをしていますが)。毛沢東は知識人を嫌っていたのに、回り中が無学で粗野な人間ばかりになると“知的に使える人間”を求めざるを得なくなった、という事情だったのではないでしょうか。著者は「自分は医者に過ぎない」と固辞し続けましたが、もしも権力に魅力を感じる人間だったらこのチャンスを逃す手はなかったでしょう。もっとも、いい気になったらあっさり毛に潰されることになったでしょうが。独裁者に仕えるのは、しんどい人生です。本書で見る限り、独裁者であることもまた、しんどい人生のようですが。だったら独裁制って、誰の役に立ってるのかな?