【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

落下物

2014-07-15 06:40:05 | Weblog

 雨も鳥の糞も「空からの落下物」のカテゴリーに一緒に入れることができます。しかし、車に付着した鳥の糞を雨はなかなか洗い落としてくれません。

【ただいま読書中】『背信の科学者たち』W・ブロード、N・ウェード 著、 牧野賢治 訳、 化学同人、1988年、2200円(税別)

 伝統的な科学観は「科学者はフェアプレイをする」ことを前提としています。科学者がデータの捏造や剽窃や論文のでっち上げなどするわけがないし、たとえ怪しげな論文があったとしても、他の科学者からの批判や追試によってそんなものは淘汰されていく、と。
 しかしそれは本当だろうか?と本書では述べられます。科学者も“普通の人間”で、“誘惑に負ける”ことは意外に多いのではないか、と。

 著者はまず歴史を遡ります。プトレマイオスの「観測」は夜間のエジプト海岸ではなくて、白昼のアレクサンドリア大図書館で行われた/ガリレオ・ガリレイは「実験」の重要さを主張したが彼が実際に実験をしたことには疑念がある/アイザック・ニュートンの『プリンキピア』には偽りと思える記述がある/ジョン・ドルトンの実験結果は現在でも再現不可能である/メンデルの論文はあまりにできすぎている……
 そして、話は20世紀になります。科学者が急増、それに伴い、論文と雑誌もどんどん増えます。共同執筆者も増え、論文の追跡はけっこう困難になります。責任が分散され、誰も敢えて怪しい文献に責任をとろうとしない風潮が生まれます。
 そして、「科学の欺瞞」が続出することになります。
 そのたびに科学界は「すべての責任は個人に」と主張します。「“腐ったリンゴ”は例外である」と。
 科学の世界には「欺瞞に対する自己規制機構」があります。ピア・レビュー(仲間による審査)、論文の審査制度、追試制度です。特に最後の追試制度は最も強力な規制になっているはずですが、それをかいくぐる人はいます。1981年の「キナーゼ・カスケード説」がその好例です。マーク・スペクターが“成功”した酵素の精製は、誰にも追試ができず、それは「スペクターが実験巧者だから」と説明されました。しかし……
 そうそう、ひっそりと野口英世も登場します。あまりきつい扱いではありませんが。
 「後光効果(有名な師匠の弟子の業績は、過剰に扱われやすい」「補助金獲得や昇進のためのプレッシャー」「名誉欲」「理論の正しさに対する過剰な思い込み」「自己欺瞞や盲信」「えせ科学者」……さまざまな「欺瞞」が科学において働かれてきました。
 「科学」は本来「論理で構築されたもの」です。しかしそれが「人間の営為」として構築されるとき、どうしても「人間的なもの」が混じり込んでしまうようです。ただ、「人間的なものが混じること」を全否定するのではなくて、「そういったものが混じっていること」を“大前提”として「科学」を見れば良いのではないか、と私は楽観的に思っています。だって、いくら上手に論文を捏造したって、結局“その先”に「新しい世界」は展開できず最後には「この先袋小路」という標識の代わりになるだけでしょうから。ちょっと楽観的すぎるかな?