【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

負満

2012-08-20 18:57:00 | Weblog

 「不幸」「不満」「不人情」ではなくて、もっとネガティブな「負幸」「負満」「負人情」などが現代の日本社会には満ちているようです。

【ただいま読書中】『1985年のクラッシュ・ギャルズ』柳澤健 著、 文藝春秋、2011年、1524円(税別)

 男の子を望んだ父親によって「息子」として育てられ、不幸な子供時代を過ごし、「女であること」「強いこと」「かっこいいこと」がすべてかなえられる世界、女子プロレスに強く憧れた長与千種。「全女(全日本女子プロレス)」に昭和55年(1980年)に入団しますが、そこは前時代的な興行団体でした。同期には、のちのライオネス飛鳥やダンプ松本がいます。
 「男の世界」は陰湿ですが、「女の世界」もまた陰湿でした。あまりの扱いにプロレスラーを引退する決心をした長与は、最後に組まれた試合の相手、すでにスターへの階段を登っているライオネス飛鳥に「真剣勝負の申し入れ」を行います。意外なことに、ライオネス飛鳥はそれを受けます。
 幼少時に使った薬の副作用で太っていたライオネス飛鳥は、神経質でコンプレックスの塊でした。それが、中学生の時に偶然出会ったテレビの画面で歌い戦うビューティー・ペアの姿に「自分の未来」を見つけます。激しい自主トレーニングと中学高校での運動クラブでの活躍(中学のソフトボールでは主将でエース、高校のバレーボールでは1年生で東海大学から推薦入学の話が来るレベル)で体を作り上げ、全女のオーディションにトップ合格。高校を中退しての入門です。若手としては強さも抜群でした。しかし「表現力」(感情と痛みと物語を観客に届かせる力)が不足していたのです。そこに、格下の長与千種からの申し入れ。自分の強さをアピールするには良い機会とライオネス飛鳥は考えたのでした。
 プロレスのルールの範囲内ではありますが、「禁じ手」なしでの容赦ないキックや張り手の応酬が続く白熱した試合で「勝者」となったのはライオネス飛鳥でした。しかし「敗者」の長与千種にも惜しみない拍手が送られました。試合に負けても「プロレスラー」として長与は観客を魅了したのです。会社は、この二人をタッグ・チームにして売り出す(全女の人気を盛り上げる)ことにします。「クラッシュ・ギャルズ」は1983年にデビューし、すぐに観客の支持を得ました。しかし長与は「さらなる高み」を目指します。女子プロレスそのものの底上げです。
 ここで長与が「武者修行」に出かけた先は……シーザー武志(シュート・ボクシング)、藤原喜明・前田日明・佐山聡(UWF)……懐かしい名前に出会えました。そしてクラッシュ・ギャルズが女子プロレスに持ち込んだ、空手や男子プロレスの技の数々は、男性(おっさん)ファンを対象とした「水着のプロレスラーが戦うエロチックな娯楽」だった女子プロレスを「女子中高生が熱狂する“物語”」に変貌させたのです。
 思春期の女性は「女であることから自由でありたい」と願うそうです。さらに1980年代半ばは、「風の谷のナウシカ」(84年)、男女雇用機会均等法(86年)など、バブルに向かいながら日本は同時に女性の自由と平等を求める時期でもありました。
 クラッシュ・ギャルズが次々繰り出す技に、対戦相手は翻弄され、さらには実況アナウンサー志生野もついて行けない事態を生みます。ところが大量に届くファンレターには「志生野さん、クラッシュが使う技の名前をちゃんと勉強して下さい」。若いファンたちは「プロレスの魅力」に目覚めてしまったのです。女子プロレスの人気復活を感じたフジテレビは、84年7月に5年ぶりに女子プロレスをゴールデンタイムに復活させます。フジテレビはさらにクラッシュ・ギャルズに歌を歌うことも契約で求めます(彼女たちや全女は芸能活動には否定的でした)。クラッシュ・ギャルズの人気は沸騰します。そういえばこの時期にテレビで観たら、リングに投げられる紙テープの量は半端ではなかったですね。片付けて運ぶのに軽トラックが必要なんじゃないか、と思うくらい。
 ダンプ松本は、クラッシュ人気に対抗するためにヒール(悪役)になります。それも極悪の。彼女は兇器攻撃が得意でしたが、そこでの工夫がすごい。フォークを長与の頭に刺しても、長与は痛いがその痛さが観客に伝わりません。そこで松本はフォークの側面を研いで刃物にしてそれですぱっと皮膚を切るようにしたのです。これだと流血がしっかりあって観客にも「痛さ」が伝わりますから。その流血によって、長与も松本も輝くのです。
 生き方も戦い方もまったく異なるクラッシュの二人が「人気」によって睡眠も練習もロクにできないスーパーアイドルの多忙な生活に叩きこまれたのですから、関係がぎくしゃくするのは当然でしょう。1985年、人気絶頂のクラッシュ・ギャルズは、8月22日に武道館で最初の対決(それぞれがソロで別々のタイトルマッチ)を行います。華麗な技の応酬を行なったライオネス飛鳥とジャガー横田の対戦ではなくて、意識が飛ぶほどの壮絶な格闘技対決を繰り広げた長与千種とデビル雅美の対戦の方に観客は軍配を上げました。そして8月28日大阪城ホール。ダンプ松本との髪切りマッチに敗れて長与は坊主頭にされました。それを見守りながら泣き叫ぶファンたち。少女たちのすべての感情が長与に注がれます。
 そして……
 クラッシュ・ギャルズによって人生が変えられた少女たちもたくさんいます。本書ではその“代表”として親衛隊の一人が登場します。そのモノローグがまた実に“リアル”です。だって、実在の人物なのですから。この人の人生だけでもまた“一冊の本”です。
 男子プロレスはある程度「筋書き」が表に現われています。それに対して日本の女子プロレスは、「筋書き」があるにしても「それはちょっとやり過ぎでは?」と言いたくなる試合があの時代には多かったように私には思えます。それがまた男子プロレスに影響を与えたのか、流血だけではなくて鉄条網や爆破とかまで普通に登場する試合が増えましたっけ。
 バブル直前の女子プロレス人気。あれは一体何だったんだろう、と私は思います。でも、心と記憶のどこかに、あのときの“熱気”が残っているような気もします。バブルの熱気が今でも日本のどこかに残っているのと同じように。
 本書は、「プロレスファンのための本」ではありません。プロレスが嫌いな人やプロレスを見たことさえない人でも、本書は興味深く読めるはずです。強くオススメ。



自動車が占める面積

2012-08-19 18:34:39 | Weblog

 私は自動車をほとんど通勤にしか使いませんが、そのためには「自宅の駐車スペース」と「職場での駐車スペース」の両方が必要です。もちろん通勤経路の「道路」も必要ですし、走っているときには周囲に車間距離が必要です。「駐車スペース」だけでもダブルで必要なのですから(片方を使っているときには片方は基本的に空いている)、日本中で「無駄なスペース」はものすごい広さになっているのではないでしょうか。

【ただいま読書中】『駐車場からのまちづくり ──都市再生のために』国際交通安全学会 編、学芸出版社、2012年、3000円(税別)

 車一台に平均8畳分の駐車空間が必要で、多くの街の中心部では地区面積の20~30%が駐車場になっているそうです。アメリカの大規模ショッピングセンターの場合、年間で20時間だけは例外として、あとの営業時間は必ず駐車場のどこかに空きがあるように設計をするのだそうです。こうするとクリスマスシーズン以外は問題ないのですが、そのかわり広大な敷地面積の2/3は駐車場になってしまいます。グーグルアースでアメリカを見たらそういった「広大な駐車場」をあちこちに見つけることができるかもしれません。
 駐車場に関する日本の法令は「駐車場法」(1957年制定)。終戦後、急に増えた首都圏の自動車に対応するために「とにかく台数分の駐車場を確保すること」が主目的とされました。それ以後自動車の保有台数は急増しましたが、現在都心部ではある程度の駐車場は確保されています。それどころか一部地域では駐車場が過剰になっているところもあります。そこで本書では「量の確保から、安心で快適な都市環境を支える駐車場政策に転換するべき」という提言を行なっています。単なる施設の“付属物”ではなくて、環境・景観・福祉など様々な視点を織り込んで地域の実情に合わせて質と量をコントロールするものに、と。
 「まちづくり」のためには「施設の駐車場」ではなくて「地域の駐車場」であるべきです。そして、そこへのアクセス道路も、都市計画の中で考えることになります。「環境」への配慮から「駐車場緑化」が取り上げられます。外周や中央のしきりに木を植える、地面を芝生にする、など具体的なプランがいくつか取り上げられています。
 「移動制約者(障害者や高齢者など)」に対してのスペースも必要です。駐車場の「質」を問うのなら、全体の5~10%を移動制約者用に駐車場スペースを確保する必要があるそうです。「移動制約者」の定義とかその車両のために一台当たりどのくらいのスペースが必要か(車椅子使用者はドアを全開する必要があります)、とかの技術的な論議も必要ですが、その前に「そういった人が社会に出るためにそういったスペースが社会に必要である」という認識が社会全体で共有できることがクリアすべき前提条件でしょう。
 アメリカでは、移動制約者という認定がおりると、その自宅前の道路に専用駐車スペースを設置する義務が地方自治体に課せられているそうです。また欧米に共通しているのは、駐車スペースの不正使用に対する厳しい罰則。反則金は交通違反の中で最高レベルだそうです。そういえば近所のショッピングセンターでは、最近になって移動制約者用の駐車スペースに停めている車で、目立つところに「利用許可証」を表示している車が目立つようになりました。この許可証の不正利用さえなければ(イギリスでは貸した方にも罰金だそうです)良いやり方だと思います。私自身将来そのお世話になる可能性はいくらでもありますからね。
 地方都市では、中小の平面駐車場の乱立が問題となっています。出入り口が歩道と干渉するし町が空洞化してしまいます。土地の活用法がなくて「とりあえず駐車場」という意識がそういった小さなパーキングを多数生んでいるのですが、ここで問題にするべきは「駐車場の規制」ではなくて「とりあえず駐車場、という意識」ではないか、という問題提起が本書では行われています。
 障害者にとって、自動車での移動は快適で安全です。それとまちづくりとを組み合わせると、たとえばロンドンのように中心部では駐車場を減らして行く方針で(たぶんパーク・アンド・ライドになるのでしょう)、その中で例外として身障者用の駐車場だけは増やしていく、というのも一つの“見識”に思えます。日本でそのまま採用するのは現時点では難しそうですが。日本だとまず「身障者はもっと社会に出て良い」ことから始めないといけないでしょうね。



最後の授業

2012-08-18 19:16:31 | Weblog

 国語の教科書で「最後の授業」(アルフォンス・ドーデ)を習ったときには、そのラストシーンの「フランス万歳」が心にしみました。戦争に負けて「フランス」から「ドイツ」に変わらされるんだな、と。ところがそれからしばらく経って、アルザス=ロレーヌ地方は、独仏の係争地で、文化的にはドイツ語圏に属すると知って、この作品に対する感想が変化しました。ところがそれからさらにしばらく経って、第二次世界大戦前にアルザスの人がドイツ国内で「アルザス人」として差別されているのを知って、私は「簡単に感想を持たない方が良さそうだぞ」と思うようになりました。少なくとも「ドイツ語かフランス語か」という単純な問題ではなさそうですので。

【ただいま読書中】『アルザスの言語戦争』ウージェーヌ・フィリップス 著、宇京三 訳、 白水社、1994年、3495円(税別)

 アルザスはかつては「アルザス」で、フランスでもドイツでもありませんでした。そもそもフランスもドイツもかつては「フランス」や「ドイツ」ではなかったのですが。
 かつてケルト人が支配したアルザスは、紀元前1世紀にゲルマン人に、ついてローマ人に支配されました。4~5世紀頃ゲルマン部族(アレマン人)が侵入し、最終的にフランク族が支配を確立します。その結果、アルザスでは「フランク語」と「アレマン語」(どちらもゲルマン方言)が用いられることになりました。フランク族は数が少なく、アルザスに実際に住んでいたのはガリア人で、使っていたのは「ガロ・ロマン語(ガリア風のラテン語)」でした。ガロ・ロマン語はやがてゲルマン方言に吸収されていきます。
 10世紀にキリスト教化の波が西から(フランス語と共に)やってきます。宗教改革後、フランスで迫害されたプロテスタントが大量にアルザスに流入します。しかしフランス語は少数派でした。ドイツ語が、印刷された聖書(を用いた説教)を通じてアルザスに広がっていきます。アルザス人は、北部ではフランク語方言/その他の地方ではアレマン方言、知的階級は共通ドイツ語さらにはフランス語も使用、という状況でした。
 30年戦争後のヴェストファーレン条約によってアルザスはフランスの支配下に入ります(ただし、中心地のストラスブールは自由都市)。フランス語が公用語とされましたがそれは行政と司法の世界に限定でした。フランスには「ドイツ語廃止、フランス語強要」の気運もありましたが、本書には「言葉を変えさせるのは、宗教を変えさせるよりも難しい」という意味の文言があります。国王も無理をする気はなかったようです。
 フランス革命によってフランス語は「国王の言葉」から「国家の言葉」になり、恐怖政治によるフランス語の押し付けが始まります。さらに「国家総動員令」によって集められた人々は軍隊で「フランス語」を学び、帰郷するとそれを広めることになります。さらに「フランス語使用」=「愛国者」という風潮が生じます。子供にフランス語を使わせるために、フランス国立師範学校の第一号はストラスブール、「未来の母親」である女子の教育のために女子中学校も作られます。しかし、「路上の言葉」はアルザス方言、宗教の言葉はドイツ語でした(アルザスのカトリック教会では「宗教教育は信者の母語で施されるべき」という原則が守られていたのです)。それでも多くの住民はフランスを敬愛していました。そこに「ドイツ民族主義(祖国はドイツ)」も出てきて話がややこしくなります。アルザスはたしかにドイツ語圏ですが、それと「ドイツへの帰属意識」は別の問題だったのです。
 1870年の普仏戦争で、アルザスとロレーヌはドイツの支配下に入ります。ドイツはドイツ語による支配を目論みますが、困難の壁に直面します。ドイツ語圏に住みフランス文化に憧れふだんは方言をしゃべる人に、一言語だけを強制することは無理な話だったのです。しかし「フランス」と「ドイツ」だけが存在して「アルザス」は存在しない人たちにとって、それはわけがわからない事態でした。アルザスはフランスからドイツ領に変わった。だったらもうフランス語は不要だろ?です。アルザスでのフランス語は「文化遺産」だったのですが。ドイツはフランスのやり方を見習って、師範学校でドイツ語に堪能な教師をどんどん育てます。
 第一次世界大戦後、アルザスに入城した(“解放”した)フランス人は「アルザスは当然フランスを愛するべきだ」と決めつけます。アルザスはドイツ帝国に意志に反して組み入れられてしまいましたが、連邦制度の恩恵(地方自治)も受けていました。それが今度はフランス式統一主義に組み入れられるのです。そしてまた言語の問題が。フランスは当然公用語としてフランス語を導入し、ドイツ語の使用を禁止します。そのため、たとえば裁判では多くの原告が通訳に頼らなければならなくなりました。結局公文書は二箇国語で作成されることになりますが、教育分野では当然のように「ドイツ語追放」となりました。その結果、アルザスでは「フランスとの対決(フランス語強制に対する反感)」が生じます。
 ところがこんどはナチスの台頭。ナチスドイツもまたアルザスを“解放”しますが、その目的は「民族国家の統一」で、その過程では「フランス」だけではなくて「非ドイツ」であるアルザス本来のものすべてが根絶される予定でした。「アルザス問題」の「解決」は「根絶」と「浄化」だったのです。すべての「フランス的なもの」と「アルザス的なもの」は否定されます。その反動は1945年にやってきました。こんどはアルザス人自体が「すべてのドイツ的なもの」を否定するようになったのです。
 「ストラスブール」の名前が示すように、交通と言語の要衝に住む人々がバイリンガルになるのはある意味当然のことでしょう。それに一つの言語を強制する野蛮な行為を平気でする人々があちこちにいることには、ため息しか出ません。まあ、言語とか文化とかが理解できないから「(高等教育を受けた)野蛮人」なのでしょうが。



お菓子

2012-08-17 19:13:47 | Weblog

 私は洋菓子も和菓子も好きなただの甘党ですが、洒落た和菓子屋さんに行くと、お菓子がまるで「季節のメッセージ」のように感じることがあります。小さくて素敵な甘いメッセージ。

【ただいま読書中】『「和菓子を作る ──職人の世界」展』虎屋文庫、2011年

 2011年9月28日~11月6日に虎屋ギャラリーで開催された「第74回虎屋文庫資料展」の解説本です。
 まずは言葉の定義集があります。その一部を抜粋してみます。
「新粉」うるち米を生のまま粉にしたもの。
「上新粉」新粉をさらに目を細かくしたもの
「上用粉」上新粉よりさらに目を細かくしたもの
「糯粉」もち米を生のまま粉にしたもの
「白玉粉」もち米を水挽きしてさらし、脱水・乾燥させたもの
「道明寺粉」もち米を蒸して乾燥させ、粗挽きしたもの
「新引粉」もち米を蒸して乾燥させたものを粉砕し、炒った粉

 恥ずかしながら、私はこれまで「米の粉なのに、いろんな名前があるもんだなあ」程度にしか思っていませんでした。
 餡も、虎屋では40種類あるそうです。そんなことを言われたら、全種類食べてみたくなるじゃないですか。
 「撰小豆(よりしょうず)」という言葉も紹介されます。小豆をお菓子に粒のまま使うときに、一粒ずつ手で選別する作業のことです。こんどからそんなお菓子をいただく場合、最敬礼してから、かな。
 同じ「ねる」でも、「煉る」は加熱しながらかき混ぜること。「練る」は加熱せずにかき混ぜることです。
 室町時代に創業したお菓子屋さんだけあって、言うことに一つ一つ「歴史」が含まれています。本書には「お菓子の作り方(具体的な手技)」「一人前の職人になるまでの過程」「史料の挿絵」などが含まれ、「良い味」がする小冊子です。



火箸

2012-08-16 19:18:36 | Weblog

 「炎」をつかむことができる箸のこと?

【ただいま読書中】『箸の考古学』高倉洋彰 著、 同成社、2011年、3000円(税別)

 最古の箸は、商王朝(殷)の遺跡から出土した青銅製のものです。骨製の箸が出土した殷時代の遺跡もありますが、同じ遺跡の春秋時代の地層からは象牙製の箸が出土しています。春秋時代晩期のお墓からは副葬品として木製の箸が見つかっています。
 では、箸の用途は? 「食事」とすぐに言いたくなりますが、それは現代の“常識”。昔だったらたとえば祭祀も考えられます。戦国時代の書籍から、この時代には箸が食事に使われることはわかりますが、ではその箸で何を食べる? 「食卓のものすべて」と言いたくなりますが、それは日本の“常識”。当時の中国では、飯は手づかみ、箸は汁物の具などに使用していました。そうそう「折箸」というピンセット状の「箸」もありましたが、これは給仕用だったようです。
 有名な馬王堆漢墓からは、食べ物が盛られた食器セットの副葬品に竹箸が添えられていました。これは明らかに「食事用の箸」です。日本でも弥生時代の遺跡からは「箸のような木製品」が出土しますが、食器と一緒に出た場合は間違いなく箸でしょうが、そうでない場合には判断に困る場合が多くあります(建築用材(屋根板をとめるためのもの)とかクソベラとかの可能性もありますので)。さらに「箸」だとして、それを何に使ったのか(調理用か給仕用か食事用か)、食事用だとしてそれで何を食べていたのか(中国式に「飯は手(または匙)・副食が箸」なのか、「すべて箸」なのか)、など疑問はいくらでも出てきます。
 現在の韓国では、箸は副食を食べるためのもので飯は匙を使います。これは古式をそのまま保存していると言えます。著者は「飯を箸で食べるためには、米の炊き方が問題になる」と述べます。日本式の「湯炊き法(蓋を取らずに米を炊き上げる)」だと飯に粘りが出て手や匙ではくっついて食べにくい。それが「湯取り法(途中でお湯を捨てて粘りを減らす)」だと、ご飯がぱさぱさになりますから箸では食べにくくなります。では昔の日本人は、どうやってご飯を炊いていたのでしょう?
 著者は史料を分析して、奈良時代には、上流階級の人間は中国式の食べ方をしていたが、庶民は「箸オンリー」になっていた、と結論を出します。その方が面倒がなくていいな、と思うのは、私が庶民だからでしょうね。


水質汚濁

2012-08-15 17:57:41 | Weblog

 時々「ある地方でどの河川が汚れているか」という“ランキング”が発表されることがあります。で、そのニュースで「昨年最下位だった○○川が今年は一位順位を上げて最下位を脱出しました」なんてことを報じることもあります。だけど、ここで重要なのは「ランク」ではないと私は感じます。もし「○○川」が水質浄化のために何か努力をしてそれが報われたのだったらその「努力」を報じればいいけれど、そうではなくて、○○川と交代で最下位に落ちた××川が昨年よりひどく汚れただけで○○川のBODの数字は昨年と変わらないのだったら、それは「○○川の手柄」ではないわけですから。

【ただいま読書中】『紅茶スパイ ──英国人プラントハンター中国をゆく』サラ・ローズ 著、 築地誠子 訳、 原書房、2011年、2400円(税別)

 アヘン戦争は、二つの植物(ケシとチャノキ)をめぐる戦争でした。どちらも当時のイギリスにとってはなくてはならないものでした。アヘンはインド経営の資金源で、茶税は英国本国経営に必須のものだったのです(インド植民地から上がる膨大な利益は、ほとんどインド周辺での戦費に消えていました)。アヘン戦争後の南京条約で、イギリスは香港の割譲と5つの貿易港の開港などを得ます。それまで中国での活動を厳しく制限されていたイギリスは、中国内陸部への手がかりを得たのです。前途は洋々……ではありません。イギリスでは「中国でアヘンが合法化される(自分で生産する)」という噂が囁かれます。そうなればインドからの輸出(つまりは財源)が激減します。ならば「茶」を手に入れなければなりません。
 世界中から収集される植物の重要性が知れることによって、19世紀に、かつての(慎ましやかな)園芸家は、冒険活劇の主人公(それこそインディ・ジョーンズ)のような「植物学者」に変貌していました。中国の「茶」を入手するために必要な人材は、まさにそういった「植物学者」だったのです。たとえば、美しく希少な植物を発見する能力だけではなくて市場価値の高い植物を発見する能力に恵まれたロバート・フォーチュンのような。
 1843年(アヘン戦争終結の翌年)から3年間、フォーチュンは中国北部を旅し大収穫を上げて帰国しました。それなりの名声を得たフォーチュンですが、彼に次のミッションが提示されます。チャノキの入手です。それも、生きた状態で。1848年フォーチュンは再度中国に入国します。中国人に変装し茶の産地に詳しい中国人を供として、数千本の苗木とその数倍の種、さらに国家機密である栽培技術と熟練技術者を入手するために。さらに「紅茶と緑茶は、品種が違うのか、製法が違うのか」という疑問に回答を得る必要もありました。
 中国潜入の旅は、命を賭けた珍道中となります。首尾良く苗木と種を手に入れますが、インドへの輸送は成功しませんでした。フォーチュンは二回目の旅へ。一回目は鎖国下の中国での秘密旅行という危険が大きかったのですが、二回目はさらに清朝政府の明白な弱体化という要素が加わります。各地で内乱や暴動が起きているのです。武夷山脈への旅でフォーチュンは「茶摘み」の重要性にも気がつきます。チャノキだけではなくて「茶の文化」も移植しなければならないようです。しかし、公式には「中国人」はすべて「皇帝陛下の持ち物」ですから、技術者の移住は「皇帝からの盗み」となります。もちろん非公式には、クーリー貿易(中国人労働者の“輸出”)は行なわれていたので、当然仲介業者もいるわけで、フォーチュンはそこに依頼するだけで契約を何件も得ることができました。おやおや、もっと劇的な事件でもあるかと思ったのですが。ところが最初の労働者は使い物になりませんでした(イギリス側にも(重大な)責任があるのですが)。
 最終的にフォーチュンはついに「チャノキの輸送」に成功します。彼は「ヒマラヤ産の茶の父」になったのです。そして数十年後、インドの茶産業は中国を凌駕し、インドはイギリスにとって不可欠な“資産”となりました。紅茶はイギリスで「贅沢品」から「大衆でも手が届くもの」になります。紅茶に入れる砂糖を求めて、別の地域が植民地になります。大英帝国は拡張します。中国は(「茶」だけのせいではないでしょうが)世界での重要性をどんどん減じてしまいます。輸送業も変化します。新茶を運ぶため、快速船(ティー・クリッパー)が開発されます。輸送の時の「バラスト」として中国磁器が船底に詰めらてましたが、その美しさがヨーロッパでの磁器産業を刺激します。
 最近は残念ながらあまり贅沢ができないので紅茶の新茶にも縁が遠くなっていますが、もうすぐオータム・フラッシュのシーズンですね。ひさしぶりに紅茶の新茶を飲んでみたいなあ。



二大政党

2012-08-14 17:10:14 | Weblog

 前世紀末頃から、マスコミでやたらと「二大政党」という言葉が登場するようになりました。アメリカも英国も二大政党で政権交代が行なわれる。それに比較して日本は……という論調だったと記憶しています。「欧米万歳」なのかと思ったら、イタリアでは少数政党が乱立して政権が不安定だとかはまったく無視しているのも不自然でしたっけ。(ついでだけど、「英」と「米」での二大政党には、まったく違った歴史的背景と「政権交代」のメカニズムがあることにも、日本のマスコミは無頓着でしたね)
 それでも3年前に「政権交代」があって、私も一瞬期待しましたよ。これでお先真っ暗に見える日本という国家が少しは変わるチャンスを得たのかもしれない、と。だけど結局日本新党や自社さきがけの時と本質がどこが違っていたというのか、というと変わっていなかったようです。あくまで「55年体制の枠組み内での出来事」。
 となると「次の総選挙」では「既成政党(55年体制)」vs「新しさを売りにする政党」とのバトルということになるのでしょうね。ただ「新しさを売りにする」がそのまま「中身の新しさ」を保証しないことが、有権者としては悩ましいところですが。あ、それと、「新しさ」ではなくて「質の良さ」を求める場合には、何を選択基準にすればいいのか、も悩ましさの一つですね。

【ただいま読書中】『わたしの名は朱』オルハン・パムク 著、 和久井路子 訳、 藤原書店、2004年(06年4刷)、3700円(税別)

 トルコの作家(ノーベル文学賞受賞者)の本です。
 のっけから「わたしは屍」と、死体が話し出してびっくりします。死体の名前は「優美」。腕の良い細密画師でした。次の章では、イスタンブルに久しぶりに帰ってきたカラ。やっと人間が話し始めた、と思ったら、次の章は「わたしは犬」。犬がしゃべるのです(もちろん聞く耳を持った人にしか聞けない言葉ですが)。次はまた人間で「人殺し」。ああ、やっと最初の殺人の話とつながりました。犬ともつながります。
 まるで画布の上の絵の具の一滴一滴を一つ一つ描写するように、話は進んでいきます。それをあとから遠くから見たら、「細密画」が見えてくるのでしょうか。
 スルタンの命で秘密の写本を作成する、その作業自体に大きな秘密があるようです。人を殺さねばならないくらいの。そして12年前の恋が復活。
 ここでわたしはやっと気づきます。ここに登場する“人々”が「私」に向かって話しかけていることに。私は本当に細密画を見ているのかもしれません。そして、そこに描かれた人(屍、犬)が絵を見ている私に話しかけているのかもしれません。私が絵を見るように、絵は私を見ているのかもしれません。だったら私が文字を見るように、文字は私を見ているのかもしれません。
 物語の舞台は、16世紀末、オスマン・トルコ帝国の首都イスタンブル。全盛期を過ぎようとする帝国は、軍事的には弱体化が始まり、治安は乱れはじめ、文化は爛熟しています。当然それを良しとしない人々は声高に「イスラムの教えの根本に戻れ」と原理主義を訴えます。そんな時代に、ヨーロッパの絵画技法(リアルな描写)を取り入れた細密画を描こうというのは、ほとんど「殺されたい」と言うのに等しい行為でした。(そもそも「人物の絵」はコラーンで禁止されています。細密画が許されていたのは「縁飾りの延長」と見なされていたからでした)
 話は、過去のバグダッド、あるいはインドや中国にまで広がります。「何世紀も疾走し続けた馬」が登場するくらいですから、時空間を軽々と物語が越えるのは当然ではありますが。
 そして、第二の殺人が。それを自分に対する挑戦と受け取ったスルタンは、どんなことをしてでも(たとえ細密画師全員を拷問にかけてでも)真犯人を見つけるように命じます。
 構成も複雑なら、文章自体も一筋縄ではいきません。昔のトルコという、時代と文化と宗教がまったく異なる世界の“常識”自体が「異質」なのに、さらに人の行動にもことばにも「表と裏」の意味が込められているのです。もうややこしやややこしや、です。「画」にも、一般的な「美」と「リアリティ」と「オリジナリティ」との“戦い”があります(たとえば「馬の画」で、「見たままの馬の姿を描いた画」と「人々の心の中にある“馬のイメージ”を描いたもの」と、どちらが「リアル」でしょう?)。そして“探偵役”の人は、細密画をじっくり眺め会話をすることで「殺人犯」をあぶり出そうとします。
 ややこしくて残酷で美しくて、そこに人間味と宗教の“スパイス”がたっぷり……イスラム版『薔薇の名前』とでも言ったら良いでしょうか。あちらよりもさらにおどろおどろしく、もっとエロチックですが。おそらく日本人ならではの「一神教って、すごいな」という驚異もたっぷりと感じることができます。閑なときにじっくり読むための本として、お勧めします。


2012-08-12 17:37:22 | Weblog

 「となりのトトロ」、おばあちゃんの畑で姉妹がトウモロコシを収穫するシーンがありましたね。あの頃のトウモロコシは、今のスイートコーンとは違って、もっともちもちして甘味はやや乏しく、「おれは穀物だ!」と主張しているような作物でした。「と」つながりで、当時のトマトも、今の果物のように甘いトマトとは違って、ひたすら夏臭くて歯ごたえのある作物だったことを私は思い出します。
 どちらも品種改良で、歯ごたえを柔らかくし味は甘くして、それはそれでとても美味しいのですが、それ以外の“何か”を失ったような気がすることもあります。単なるノスタルジーかもしれませんが。

【ただいま読書中】『トマトとイタリア人』内田洋子、S・ピエールサンティ 著、 文藝春秋(文春新書310)、2003年、700円(税別)

 コロンブスの「新大陸発見」によって、様々なものがヨーロッパにもたらされました。しかし、重要な二種類の植物(ジャガイモとトマト)は太平洋側のアンデスで栽培されていたため、その存在がヨーロッパに知られるにはもう半世紀ほどかかりました。インディオはトマトを、生食またはソースの材料としていましたが、ヨーロッパではおなじナス科でトマトとそっくりのマンドラゴラからの類推で「トマトは有毒の実」としてしまいました。もちろん空腹に耐えかねて食べる人はいたでしょうが、いわば「日陰者の存在」状態が3世紀続きます。(「トマトの毒性」を信じた人が、「トマト料理によるリンカーン大統領暗殺計画」を立てた、なんて驚きのエピソードも紹介されます)
 しかしトマトの品種改良と食生活の変化によって、トマトに日の光が当たります。あっという間に人気者。まずは17世紀ヨーロッパで「食卓の飾り物」として、そして18世紀には「食品」として。はじめは「肉(茹で肉や焼肉)のソース」として重宝されましたが、やがて運命的な「パスタとの出会い」があります。18世紀のナポリでは、手打ちパスタが広く食べられていましたが、それとトマトソースを組み合わせることを思いついた料理人がいたのです(名前は残されていません)。一度その「組み合わせ」が始まれば、あとは一気呵成。数百種類のパスタそれぞれに適したソースが開発されていきます(同じペンネでも、表面に細かい溝があるものには唐辛子の利いたトマトソースで、表面がつるりとしていたらツナ入りトマトソース、なんて細かい“キマリ”があるのだそうです)。
 19世紀のイタリアは、外国に支配された都市国家の集合体でした。だから独立運動と統一運動が起きるのですが、その時「食」の面で「イタリア」を象徴したのが「トマト」でした。著者は、イタリア国旗の「赤」は、国民が流した血であると同時にトマトのことでもあるのではないか、なんてことまで言っています。
 「品種改良」によって、トマトは長期保存が可能になりました。しかしその味は低下している、と著者は嘆いています。「イタリアの味」が失われている、と。それでも「イタリアで食べるトマトソースは、他の国のとは味が違う」のだそうです。そんなことを言われたら、イタリアまで食べに行きたくなるじゃないですか。困った本です。



おもいおもい

2012-08-10 17:51:48 | Weblog

 思い思い
 重い思い
 重い重い

【ただいま読書中】『アーヤと魔女』ダイアナ・ウイン・ジョーンズ 著、 田中薫子 訳、 佐竹美保 絵、徳間書店、2012年、1700円(税別)

 本当に残念なことですが、DWJの遺作です。もっともっと彼女には新しい作品を生みだしてほしかったなあ。
 孤児のアーヤの得意技は、人を操ること。孤児院の居心地があまりに良いものだから、もらわれていくことを上手く回避し続けていましたが、ある日ついに年貢の納め時が。醜悪な魔女ベラ・ヤーガとマンドレークのコンビが、下働きの子供を求めにやって来たのです。これにはアーヤの“魔法の力”も太刀打ちできません。
 アーヤが連れてこられた魔女の家は、不潔の極みでした。アーヤは、魔法を教えてもらう代わりに掃除や下働きをせっせとしますが、ベラは約束を守りません。だったら自分で魔法を学んでやる。アーヤは決心します。……でも、どうやって?
 DWJの全盛期だったら、アーヤの出生の秘密とか使い魔のトーマスの物語などにそれぞれ本一冊分くらいの設定をした上でそれを小出しにして物語の厚みを増すと同時に読者の想像力を刺激してくれたでしょうが、本書ではそのへんはあっさりしたものです。小学生低学年向け、ということだったのかな?
 しかし、「手が足りない」魔女に“お手伝い”する魔法とか、恐怖の大王のようなマンドレークの意外に人間的な部分とか、DWJの“遊び”は健在です。「どう?」とニヤリとする著者に対して、こちらもニヤリとして返す、と言った感じかな。こちらが天国の方向を向かなければならないのは、本当に残念ですが。だけど、きっとまだ日本に紹介されていない本はたくさんありますよね。それが出るたびに、私は読んでいくことでしょう。



キング・オブ・スポーツ

2012-08-09 18:44:49 | Weblog

 日本では人気がありませんが、十種競技はヨーロッパでは「キング・オブ・アスリート」として評価が高いそうです。それはそうでしょう。ダッシュ・ラン・投擲・跳躍と、まったく違う競技を10も練習するだけでも時間的に大変なのに、さらにまったく違った能力を要求される筋肉をバランス良く自分の体に育成する必要があるのですから。
 そうだ、日本で人気が出そうな「十種競技」を思いつきました。
 まずは「格闘技(武道)十種競技」。柔道・剣道・弓道・アーチェリー・空手・フェンシング・テコンドー・ボクシング・レスリング・相撲で総当たり。
 それから「球技十種競技」。テニス・卓球・バドミントン(球じゃないけど)・ゴルフ……あら、数が足りないな、だったらチームを編成させて、バスケットボール・野球・サッカー・ホッケー・ラグビー・バレーボール。これまた総当たりで勝ち負けのポイントを合計させましょう。
 このどれにも秀でた能力を示す人がいたら、その人は「キング(またはクイーン)」の名に値すると言えません?

【ただいま読書中】『死をみつめて ──中学生までに読んでおきたい哲学(6)』松田哲夫 編、あすなろ書房、2012年、1800円(税別)

目次:「ロボとピュー太 死後の世界」南伸坊、「ねずみ花火」向田邦子、「絵本」松下竜一、「死について」松田道雄、「死教育」伊丹十三、「無いものを教えようとしても」池田晶子、「大人の世界」吉村昭、「自殺と人間の生きがい」神谷美恵子、「自殺について」阿佐田哲也、「生まれ変わるためには死なねばならない」河合隼雄、「今日でなくてもいい」佐野洋子、「不思議なサーカス」高見順、「仁科氏の装置」小松左京、「わが生死観」岸本英夫、「死について」埴谷雄高、「戦争体験をめぐって」吉田満、「食慾について」大岡昇平、「確認されない死のなかで」石原吉郎、「粗忽長屋」柳家小さん(談)

 向田さんの文章はやはりさすがですね。“ねずみ花火”が何のたとえか、どうか現物をお読み下さい。
 魂に真っ直ぐ切り込んでくるのは、松下竜一の文章です。夜空に仰ぐ星の光は、何百年も何千年も前に発せられたものですが、それと同じように12年の歳月を超えて著者の元に届いた「慈愛の光」。ここに込められた思いと、それを受ける人間の思い。その重さに私はたじろぎます。
 固いものもあれば柔らかいものもあります。最後の「粗忽長屋」には笑ってしまいましたが、たとえばこれが「らくだ」でも『死を見つめ』るテーマにはふさわしかったかもしれません。
 「死について、生の大切さについて、子供たちに教えよう」という動きに反対するつもりはありません。ただ「教える」大人が、本当に「死」について考えているのかな、という危惧は感じます。子供って、大人が上っ面のことばを使ったときには異常に敏感にそれを察知しますからねえ。本書でもそれを感じることがありますが、「いろいろある」こともまた大切であることを子供たちは学ぶことができるかもしれません。