本当に良い人は「自分は良い人だ」と主張するものでしたっけ?
【ただいま読書中】『ABC殺人事件』アガサ・クリスティ 著、 中村能三 訳、 新潮社(新潮文庫)、1960年(79年16刷)、280円
有名な作品ですが、推理小説ですから未読の方は最後の二つの段落だけを読んでください。一応ネタバレはしませんが、オープニングから少しずつ謎が展開していく過程も楽しんだ方が良いですから。
“小さな灰色の脳細胞”エルキュール・ポアロは隠退してカボチャ作りに勤しんでい……たはずですが、事件が彼を放置してくれません。
1935年6月21日金曜日アンドーヴァ(Andover)に注意を促す匿名の(「ABC」と署名された)手紙がポアロに届けられ、その日にアッシャー(Ascher)という老婦人が殺されます。ろくでなしの亭主が最有力の容疑者ですが、「ABCの手紙」と、店から何もなくなっていないこと、カウンターに開いて伏せられたABC鉄道案内にポアロは引っかかります。「ABC」?
ポアロは「今できることは待つこと」と言い、本当に待ちます。すると第二の「ABCの予告状」が。こんどは7月25日、ベクスヒル海岸(Bexhill-on-Sea)。本人のベルトで絞殺されたのはエリザベス・バーナード(Bernard)という若い女性。死体の下にはABC鉄道案内。
警察の見解は「精神異常のアルファベットフェチの犯行」。しかしポアロは「動機」はあるはずだ、と考えます。
8月30日チャーストン(Churston)、そしてカーマイクル・クラーク卿(Sir Carmichael Clarke)。一体犯人の目的(なぜ連続殺人をするのか、なぜそれを予告するのか)は何でしょう? ポアロの灰色の脳細胞が活発に活動を始めます。それにしても、ポアロってこんなにユーモア感覚を持っていましたっけ? 若い頃に読んだときには、彼のユーモアについては完全に見過ごしていました。
本書では「時の非情さ」も一つの主題のようです。作品の冒頭から語り手のヘイスティングスが気にしているのは、自分に老いの徴候が現れてきていること、それがポアロや付き合いの長い人たちにも同様に認められることです。そして、殺人事件にかかわった人たちにも、同じようなものをヘイスティングスは認めようとします。それにしても六十前ですでに「老婦人」と表現されてしまうとは、私はどうすりゃいいのよ、と言いたくなりますな。
そうそう、この時代にはまだ「若い女性の身持ち」とか「婚前の評判」なんてことばがまだ生きていました。しかしそういった時代にも若い女性が実際にはどのように生きていたのか、もわりと生き生きと描写されています。単なる謎解きだけの探偵小説ではありません。「昔」を知ることもできる“お得”な作品です。