瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

野口整体、探究心を刺激される

2005年05月03日 | 読書日誌
読書日誌・エポケーの方に金井省蒼著『野口整体・病むことは力』(春秋社、2004年)のレビューを書いている。以前から野口整体に興味があり、野口晴哉の本は書評でも2冊取り上げた。道場にも一度行ったことがある。金井氏の本は、野口整体への私の興味をさらに刺激した。金井氏がとくに「心療的な整体指導」ということを提唱しており、それが私の関心に重なるのだろう。

本には、活元運動や愉気によって、体のゆがみがとれたり、ゆるんだりするプロセスと、それと一体となって心理的なトラウマが解消されていく事例が多く語られている。体・心・気が一体のものとして、体のゆるみが、心の開放、気の充実につながっていく様子がよく分かる。ここでは、心理的成長と気という私の関心の二つの方向が一体のものとして語られ、統一的な方法論として確立されている。

しかも、エポケーにも少し書いたが、体の故障と心理的な問題を一体のものとして捉える視点は、ミンデルと深く共通するものを持っている。野口整体は、気と体(体癖)についての理解が深いが、プロセス指向心理学は、心理療法的なアプローチの確たる方法をもち、またドリームボディという概念に代表されるような世界観としての自己表現に優れている。

私は、ヴィパッサナー瞑想に興味を持ち実践をしているが、そこでも瞑想によって心理的な抑圧からの開放が起こるのを実感した。一方で野口整体のような体と気に働きかける方法で、抑圧からの開放が起こるという事実にも限りなく引かれる。といよりも、私の関心の方向のひとつがここにある。私の、深いレベルでの関心にぴったり添うものが、野口整体にあったということを改めて認識したといえる。私の探究心がいたく刺激されている。
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日常の中のサティ

2005年05月03日 | 瞑想日記
昨日は、帰宅後すぐと11時ごろからとの2回瞑想。それぞれ30分くらいか。2回目は、後半少し舟こぎ状態だった。今朝は、起床後すぐ40分ほど。やはり始める前に少しだけ「面倒くさい」という感じがある。問題は、その気持ちにサティが入っていなかったことだ。

妻は、今日は仕事の関係で外出。瞑想前に私に託された家事関係(家族の食事や洗濯物)のことで打ち合わせ。そのやりとりの中で少しの感情の動きがあった。そういえば、それにもサティが入っていなかったなと、これは瞑想中に思い出した。何度も繰り返し思うが、やはり日常生活の中のサティが続かない。道や廊下を歩いているときは、かなりサティが入るのだが。

先ほどの妻とのやりとりで、彼女がしゃべっている途中で私が質問した。それで「これから説明するんだから、最後まで聞いてよ」と言われ、私は苦笑い。そんなとき多少の感情の動きがある。そこで、すっとサティが入るとやはり違うだろう。あるいは、何かの拍子で私がカッとなり、口調が荒くなったりした場合は、だいたいはサティが入っていない。しかし、意識して入れようと思っていれば、次第に入る回数は多くなっていくだろう。そうしていくことが、とても大切なのだ。

ところで、朝の瞑想の方はかなりよかった。サティがクリアになってくると、きわめて微妙な一瞬の思考の片鱗にもサティが入るようになる。しかしその片鱗は、どこまでも微細になっていくようにも感じる。その微細な片鱗さえもやがては消えていくのだろうか。
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「自己」と「日本人」

2005年05月03日 | 心理
私は、幻想であるはずの「自己」への囚われから自由になっていないが、同時に「日本人」という幻想のアイデンティティへの囚われも強いと感じる。たとえば、イチローや両松井の活躍を見て喜ぶことは多かれ少なかれ誰にでもあるだろうが、それは「自己」が「日本人」としてのアイデンティティと強く結びついているからだろう。サッカー・ワールドカップ予選での日本チームの勝敗に一喜一憂するのも、同じ現象である。映画の「Shall We ダンス?」がハリウッドでリメイクされたのが、何となく得意であったりするのも同様だ。

これぐらいなら特に社会的に問題になることはないが、中国や韓国での反日デモに感情的な反発を感じて、互いの感情的な反発が不幸な形で衝突してしまったら、これは深刻な問題になる。「自己」というアイデンティティの中核に「○○人」という意識が入り込んでいるから、そういう反応が出るのだが、ではクルド人の場合はどうか。イラク、トルコ、シリアの三国にまたがって住むクルド人は、イラク人等々としてアイデンティティよりもおそらく「クルド人」としての自覚が強烈だろう。江戸時代の武士にとっては、「日本人」というより「○○藩の武士」というアイデンティティの方が強力だったろう。

「自己」という幻想に同一化していることを客観視して、脱同一化することは難しい。しかし、「日本人」というアイデンティティがいかに根拠の薄いものであるかを洞察することは、ある意味では容易ではないか。たとえば、つい2000年くらい前に朝鮮半島から多数の人々がやってきて、縄文人と交わりながら、日本にある程度のまとまった政権を形作ったのである。現代の私たち自身は、そういう人々の血を多く受け継いでいる。そこまでたどれば、「日本人」とか「韓国人」とかの区別にとらわれるのはバカバカしい。私たちの中には半島の血が多く流れているのだ。

私たち庶民が「日本人」という自意識を持つようになって、たかだか140年しか経っていない。それは近代国家の成立とともに作られた、時代特有の幻想に過ぎない。

にもかかわらず「日本人」であることに固執し、「日本人」への毀誉褒貶に一喜一憂してしまうのはなぜなのか。「自己」という幻想のなかに「日本人」という観念は、どのようにして食い込んでいるのか。二つの観念は、どのような層構造をなし、どのようにして結びつき、どのようにして互いを強化し合っているのか。その辺をもう少し明らかにしていきたい。これは、「自己」という幻想から自由になるという視点からも、大切なことかも知れない。

しかし、何を手がかりに考察していくかは、意外と難しい。じっくりと温めていきたいテーマだ。
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