瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

一日断食4回目

2005年06月04日 | 瞑想日記
◆一日断食4回目
これまで回を追う毎にわずかづつ空腹感が増したので今回はどうかなと思ったが、とくにそういうことはなかった。相変わらず普通に動いたが、エネルギー不足を感じることもなかった。今日はすまし汁を一回分だけ作った。渡辺正『朝食抜き!ときどき断食!』に寒天なら一本分を食べても胃には全く負担にならないとあったので、試しに作ってみた。ぜひ食べたいと思うほどの空腹感はなかったが。今日は午前中に便が2回ほど出た。宿便という分けではないが。週一回の断食はどうやら定着しそうだ。

◆瞑想
朝と午後、2回瞑想。朝は1時間近かったか知れない。それなりの深まりがあった。途中からある人物への嫌悪が湧きあがった。それは明らかに自分自身への嫌悪の投影だった。私にはまだまだ根深いコンプレックスがある。それが本当の意味で受容されないかぎり、解放はないであろう。正月の瞑想合宿のことを思い出した。そこには確かに受容の体験があった。しかし、まだまだそのプロセスは続くのだろう。

『人生は廻る輪のように』のなかにはいくつもの印象深い話があったが、40過ぎたキューブラー・ロスが、幼き日の心の痛みに直面して号泣する場面がある。あるワークショップの主催者が意地悪く強欲で、かなり不愉快な思いをした。帰宅途中に友人からそのワークショップのことを聞かれても、不機嫌に押し黙っていた。友人は冗談めかして「イースターのうさちゃんの話が聞きたいな」といった。

その直後にキューブラー・ロスは号泣する。それは、幼い日にかわいがっていたうさぎを家族で食べるため、父に「肉屋にもっていけ」と言われたときの苦痛に関係していた。父は吝嗇な面があり、娘が愛するうさぎも有無をいわせず食卓にのせさせた。40年近くも抑えていた苦痛と怒りが爆発したのだ。同時に彼女は、自分が吝嗇な男にアレルギーがあることにも気づく。

誰の心にも多かれ少なかれ、受容しきれていない苦痛やコンプレックスがある。そういうことを改めて思った。                                     
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人生は廻る輪のように

2005年06月04日 | 普通の日記
読書日誌・エポケーの方に『人生は廻る輪のように』エリザベス・キューブラー・ロス(角川書店、1998年)を取り上げた。少しは知っていた彼女の後半生よりもその幼き日から若き日々の姿に圧倒された。人の苦しみに手を差し伸べたいという彼女の熱烈なる願い、そのために危険も恐れずに前進していく勇気と行動力。苦しむ人々に寄り添うことで彼女自身も成長していくプロセス。そして人間にとっての「死とその過程」の意味に光を当てたその視点。私にとって、これからも多くを学んで行くべき大切な「師」の1人だと思った。

この本の中に彼女の母を失ったときのこんな一節があった。

『(母の死の)知らせを受けたとき、わたしは思わず神に問いかけた。「人の世話をすること、愛を与えることだけに八一年の生涯をついやした母のような女を、なぜ植物状態のままで四年も寝たきりにさせたのですか?」。』

神の無情さを呪いさえした彼女が、まもなく神の寛大さに感謝するようになったという。それは、「‥‥母に与えられた最後の教訓が、母の不得意科目、つまり、世話を受け、愛情を受ける方法をM身につけることであった」ことに気づいたからだという。

私も、母の葬儀のとき参列者への挨拶の中で語った。「彼女は、人の世話をすることだけに生きてきて、自分が自分のために楽しんだり、人の世話や愛を安心して(すまないという心苦しさを感じずに)受けることができない人だった。彼女の最後の何年かは、人の好意に素直に身を任せることを学ぶためにあったのだと思う」と。こういう捉え方をしたのは、キューブラー・ロスの他の本からの影響が何がしかあったと思う。当のキューブラー・ロスが自分の母に対して同じことを感じていたと知って印象深かった。
コメント (2)
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