瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

サティ、めんどう

2005年06月24日 | 瞑想日記
一日調子がよかったのだが、帰宅のころになったら急に疲労がやってきた。けったるい感じで自転車に乗った。今日はサティはめんどうくさいなと思った。こんな日はだらだらと雑念を追いながら行くのが楽しい。と思った瞬間、その気持ちをサティし始めていた。「めんどうくさい、と思った」、「疲労」‥‥。

サティなんかしたくないときでも、「したくない」とサティすることは苦ではないし、そのめんどうくさい気持ちにそってサティしていけばいいのだから、気楽なものだ。要するにどんな状態や気持ちでも、まずはその状態にサティすればよいのだ。

電車の中で『シャンカラ』を開いた。理論的な考察があまり胸に響いてこない。眠くなった。目を閉じてサティをし始めた。かすかな体の感覚の変化やイメージや思考の断片にサティが入っていく。その合間合間に「悲しみ」というサティが入る。心は確かにかすかな悲しみを感じている。それが、どこから来るのかはわからない。
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「私」は何?

2005年06月24日 | 瞑想日記
◆「私」は何?
Mercyさんの Mercy Blog をほぼすべて読ませていただいている。最近ふたつ印象に残った文章があった。

ひとつは、2005/06/21 (火) 付けの「わたしは何処に?」という記事。

『わたしはこの身体だと思っている人、多いんじゃないかな。

わたしはこの身体でしょうかね。

手のなかにわたしがいるでしょうか?

足のなかにわたしがいるでしょうか?

胃や腸、肝臓、心臓にわたしがいるでしょうか?

いや頭がわたしだと言う人がいるかもしれませんね。脳みそがわたしですか?

あなたは脳みそなんですか。?

わたしとはいったいなんなんでしょう?

あれこれ考える心がわたしでしょうか?

だとすると思考がでてこない熟睡中、わたしはどこへいっちゃんたんでしょうか?

わたしはいなくなったんでしょうか?

熟睡中、行方不明ですね(笑)

わたしはいったいどこにいて、誰なんでしょう?』

なるほどな、と思う。逆にこの文章をきっかけとして、私は私を何であると理解し、どのような私に執着しているのかと。確かに自分の脳みそを見せられて、「これがお前の正体か」と聞かれれば、ハイとは答えられない。でも、私は自分のからだ全体を自分の体だと思い、それに執着している。では、自分の体に執着する私は、どこにいるのだろうか。脳みその中にいるのか。脳みその神経インパルスの活動が私なのだろうか。いやいや‥‥。

では、やはり私は、思考によって生み出された幻影なのだろうか。熟睡中は、確かに思考はなない。しかし、私には、「私」という記憶があって、その「私」は、睡眠中も潜在意識の記憶として行き続けている。

それにしても、からだを超えたこころが「私」なのか。では、そのこころとは? 

うーん、問いは果てしなく続いていきそうだ。

◆もう一つ

『修業したから、頭が輝くわけではない。

*1瞑想したから、ハートが開くわけでもない。

「わたしは誰か」と問いかけても、マントラを何千万回唱えたとしても、

悟れるわけではない。

それらは恩寵と縁による。

それが、ハートを一瞬に開き、

「わたしは誰か」を一瞬に理解させてくれる。

大切なのは、熱意、穏やかさ、尊敬の念だと思うよ。

*1:瞑想等が必要ないということではない。』

この言葉もまた、こころに深く留まるだろう。
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インド思想史と仏教

2005年06月24日 | 瞑想日記
◆インド思想史とテーラヴァーダ仏教
最近、インド思想史に関心がある。今は島岩著『シャンカラ』を読んでいる。他には玉城康四郎の大著『近代インド思想の形成』を少しづつ読んでいる。一方でテーラヴァーダ仏教も少しづつ勉強したい。最近、Matthew Flickstein の Swallowing the River Ganges を読んだ。『清浄道論』へ実践的なガイドとのことだった。すぐもう一度読み直してみるつもり。

シャンカラは、不二一元論を唱え、現象世界の多様性が無明に起因するとし、現象界の幻(マーヤー)を説いた。この思想は仏教の説に似ており、「仮面の仏教徒」とも呼ばれたという。思想史的には、彼により、仏教がバラモン教に吸収される結果となった。

インド思想史と大乗仏教との関係ということなら、何となく相互の影響関係がわかるのだが、テーラヴァーダ仏教の方は、インド思想史とのかかわりの中でどう位置づけることができるのだろうか。その辺がほとんど分からない。そんな関心もあって、両方を少しづつ学んでいきたい。

◆小食を始めた背景
おそらくヴィパッサナー瞑想の合宿に参加していなければ、小食をここまでやる気になったかどうか分からない。瞑想合宿そのものが小食の実践であり、そこで小食と瞑想との関係を体感した。そして並々ならぬ小食に徹し、しかも睡眠時間も2・3時間、驚くほど健康で精力的な地橋先生に間近に接していたことも大きい。

そういう背景があった上で、甲田光雄などの本を読み、その主張にすっかり納得してしまったのだ。理論的、実践的に「これま間違いない」と得心した。

たとえば、現代栄養学が必要だという一日のカロリー摂取量そのものが、あまりしっかりした根拠のない間違った数字であり、むしろ過食を招き、体にいろいろな弊害をもたらす。これが理論的にも、実践的な研究報告からも、そして瞑想合宿での経験や地橋先生の姿からも納得できた。さらに日常生活の中での自分の実践からも、ますます間違いないと思うようになっている。
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