◆『「ゆる」身体・脳革命』高岡英夫(講談社、2005年)
今日、ブログ・エポケーの方でこの本を取り上げた。代替医療への社会的認知という視点から見て、福田―安保理論が果たしていく役割は大きいだろう。高岡氏の「ゆる」革命の理論も、「からだとこころ」からの実践や方法にとってかなり重要な役割を果たしていくのではないかと思った。これから少し、この人の他の著作も読んでいこうと思う。
◆スティーヴン・レヴァイン『めざめて生き、めざめて死ぬ』(春秋社、1999年)より
先日、ラマナ・マハルシの『不滅の意識』に触れたが、『めざめて生き、めざめて死ぬ』のスティーヴン・レヴァインは、ラマナ・マハルシに深く影響されていることが分かる。本の全体からもそれは感じられるが、本の一章をラマナ・マハルシに捧げている。
『意識そのものを探究しはじめれば、意識の源が見えるだろう。じかにそれを体験するだろう。その源から、「私」という観念や、生まれ、目覚めさせられ、死んで行く「誰か」の観念が生じるのである。この源を体験するなら、「私」という考えは弱まり、真理の広大さの中に漂うだけになる。』
『われわれは、純粋な気づきの清澄な光を、それが意識のなかに投げかけている影と取り違えている。純粋な気づき、つまり純粋な「在る」という性質には、個人的な同一化はない――それは、存在そのものの本質であり、万物を平等に抱きかかえている無条件の愛と同一である。この「在る」が意識を生じるとき、「我在り」という普遍的な感覚が起こってくる。われわれは、この「我在り」として反射された存在の本質を気づきの対象と取り違え、「私はこの思考である」と言うのである。われわれは、すでに純粋な存在の真理から二歩遠ざかったのだ。』
意識の源、純粋な気づきの清澄な光から「私」という観念が生まれる。そして「私は私である」「私はこの思考である」という自己同一化が始じまる。 しかし、「私が私であること」に根拠はない。真理の広大さの中に漂うだけの影であり、陽炎である。執着すべき根拠のないものに執着するところに私たちの無知と苦しみの原因があるのだろう。
今日、ブログ・エポケーの方でこの本を取り上げた。代替医療への社会的認知という視点から見て、福田―安保理論が果たしていく役割は大きいだろう。高岡氏の「ゆる」革命の理論も、「からだとこころ」からの実践や方法にとってかなり重要な役割を果たしていくのではないかと思った。これから少し、この人の他の著作も読んでいこうと思う。
◆スティーヴン・レヴァイン『めざめて生き、めざめて死ぬ』(春秋社、1999年)より
先日、ラマナ・マハルシの『不滅の意識』に触れたが、『めざめて生き、めざめて死ぬ』のスティーヴン・レヴァインは、ラマナ・マハルシに深く影響されていることが分かる。本の全体からもそれは感じられるが、本の一章をラマナ・マハルシに捧げている。
『意識そのものを探究しはじめれば、意識の源が見えるだろう。じかにそれを体験するだろう。その源から、「私」という観念や、生まれ、目覚めさせられ、死んで行く「誰か」の観念が生じるのである。この源を体験するなら、「私」という考えは弱まり、真理の広大さの中に漂うだけになる。』
『われわれは、純粋な気づきの清澄な光を、それが意識のなかに投げかけている影と取り違えている。純粋な気づき、つまり純粋な「在る」という性質には、個人的な同一化はない――それは、存在そのものの本質であり、万物を平等に抱きかかえている無条件の愛と同一である。この「在る」が意識を生じるとき、「我在り」という普遍的な感覚が起こってくる。われわれは、この「我在り」として反射された存在の本質を気づきの対象と取り違え、「私はこの思考である」と言うのである。われわれは、すでに純粋な存在の真理から二歩遠ざかったのだ。』
意識の源、純粋な気づきの清澄な光から「私」という観念が生まれる。そして「私は私である」「私はこの思考である」という自己同一化が始じまる。 しかし、「私が私であること」に根拠はない。真理の広大さの中に漂うだけの影であり、陽炎である。執着すべき根拠のないものに執着するところに私たちの無知と苦しみの原因があるのだろう。