瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

本のこと

2005年08月07日 | 読書日誌
◆『「ゆる」身体・脳革命』高岡英夫(講談社、2005年)
今日、ブログ・エポケーの方でこの本を取り上げた。代替医療への社会的認知という視点から見て、福田―安保理論が果たしていく役割は大きいだろう。高岡氏の「ゆる」革命の理論も、「からだとこころ」からの実践や方法にとってかなり重要な役割を果たしていくのではないかと思った。これから少し、この人の他の著作も読んでいこうと思う。

◆スティーヴン・レヴァイン『めざめて生き、めざめて死ぬ』(春秋社、1999年)より
先日、ラマナ・マハルシの『不滅の意識』に触れたが、『めざめて生き、めざめて死ぬ』のスティーヴン・レヴァインは、ラマナ・マハルシに深く影響されていることが分かる。本の全体からもそれは感じられるが、本の一章をラマナ・マハルシに捧げている。

『意識そのものを探究しはじめれば、意識の源が見えるだろう。じかにそれを体験するだろう。その源から、「私」という観念や、生まれ、目覚めさせられ、死んで行く「誰か」の観念が生じるのである。この源を体験するなら、「私」という考えは弱まり、真理の広大さの中に漂うだけになる。』

『われわれは、純粋な気づきの清澄な光を、それが意識のなかに投げかけている影と取り違えている。純粋な気づき、つまり純粋な「在る」という性質には、個人的な同一化はない――それは、存在そのものの本質であり、万物を平等に抱きかかえている無条件の愛と同一である。この「在る」が意識を生じるとき、「我在り」という普遍的な感覚が起こってくる。われわれは、この「我在り」として反射された存在の本質を気づきの対象と取り違え、「私はこの思考である」と言うのである。われわれは、すでに純粋な存在の真理から二歩遠ざかったのだ。』 

意識の源、純粋な気づきの清澄な光から「私」という観念が生まれる。そして「私は私である」「私はこの思考である」という自己同一化が始じまる。 しかし、「私が私であること」に根拠はない。真理の広大さの中に漂うだけの影であり、陽炎である。執着すべき根拠のないものに執着するところに私たちの無知と苦しみの原因があるのだろう。                     
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一日断食13回目

2005年08月07日 | 瞑想日記
◆一日断食13回目
昨日、一日断食。一日断食もすっかり自分の生活の中に組み込まれた感じだ。明け方4時半ぐらいまで起きていたので、起床が遅くなり、朝の瞑想の機会は逃した。すぐにゴミだしや掃除、買い物。実は、瞑想合宿に向けて一日瞑想会に行く気持ちもあったのだが、結局行かず。父の病院に行く。

午後少し空腹感があったが、その他はまったく普通の日常生活であった。頭痛もなかった。私は去年まで非常に汗かきで夏はそれが嫌だったが、今年は汗をあまりかかなくなった。これほど大量に水分をとっているにもかかわらずである。尿はよく出る。そういえば朝抜きをすると尿の量が増える傾向があるという。便は午前中2回、午後1回。各回の量はそれほど多くはなかったが。

水分はもちろん多めにとった。天然水1.5リットル、いや夜飲んだ量も含めると2リットル、柿の葉茶2杯、野菜ジュースも一杯。午後は、寒天を食べ、すまし汁も飲んだ。

今朝の体重は57.6キロで、これまででいちばん少ない。11時頃メロンを食べ、12時過ぎにおかゆで復食という変則。便も普通に出た。今朝は瞑想15分ほど。全体として瞑想合宿へ向けての準備としてはきわめて不十分な一日だった。
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