「あなたが『いまに在り』、全身全霊をあげていましていることをするなら、あなたの行為にはスピリチュアル力が働きます。‥‥いまや、行為の第一義的な目的はその行為に意識を込めることです。‥‥職場やその他の場所で人に会うときには、相手に関心のすべてを注ぎなさい。あなた個人としてそこにいるのではなく、気づきの場として、研ぎ澄まされて『いまに在る』状態として、そこにいるのです。‥‥二人の人間のあいだに立ち上がる気づきの場、それが人との関わりの第一義的な目的になるのです。」(エックハルト・トール『ニュー・アース -意識が変わる 世界が変わる-
』P289~90)
人にどう評価されるかに関係なく、なすべきことを心を込めて淡々と行うあり方(私のなかの「白鶴」のイメージ)は、そのなすべきことに全霊が注ぎ込まれるほどに、完璧な「白鶴」のあり方に近づいていくのだろう。
そのなすべきことが、人との関わりであることも多い。その相手とともに行う仕事の目的や利害関心も無視できないかもしれないが、まずは自己意識を離れて(思考やそれに伴う感情から離れて)、相手の話、相手の存在そのものに関心のすべてを注ぐ。ロジャーズ派のカウンセリングでは、そのようなあり方を「無条件の肯定的関心」と呼んだ。深く無条件の肯定的関心が注がれているところには、二人の間に「気づきの場」が立ち上がるのだろう。
瞑想をしていれば、思考に飲み込まれずにある程度何かに集中を続けることはできるようになるだろう。それと同様に、相手の話や存在そのものに、思考に巻き込まれない無条件の関心を注ぎ込み続けることは、ある程度できるに違いない。
日常の中でそれを試みていくことがきわめて大切だ。
若き日、ロジャーズを読み始めたのと鈴木大拙を読み始めたがほぼ同時であった。私のなかでは、両者が深く共鳴しあって、ロジャーズを読むことが大拙の理解を助け、逆もまた然りであった。エックハルト・トールの『ニュー・アース』もまた、ロジャーズの来談者中心療法が何を主張し、何を実践していたのかの理解を深めさせてくれる。ロジャーズにはかつて、強い影響を受けたが、瞑想を行うようになった今、そしてエックハルト・トールを読んだ今、実践的な意味でも理解が深まるような気がする。
人にどう評価されるかに関係なく、なすべきことを心を込めて淡々と行うあり方(私のなかの「白鶴」のイメージ)は、そのなすべきことに全霊が注ぎ込まれるほどに、完璧な「白鶴」のあり方に近づいていくのだろう。
そのなすべきことが、人との関わりであることも多い。その相手とともに行う仕事の目的や利害関心も無視できないかもしれないが、まずは自己意識を離れて(思考やそれに伴う感情から離れて)、相手の話、相手の存在そのものに関心のすべてを注ぐ。ロジャーズ派のカウンセリングでは、そのようなあり方を「無条件の肯定的関心」と呼んだ。深く無条件の肯定的関心が注がれているところには、二人の間に「気づきの場」が立ち上がるのだろう。
瞑想をしていれば、思考に飲み込まれずにある程度何かに集中を続けることはできるようになるだろう。それと同様に、相手の話や存在そのものに、思考に巻き込まれない無条件の関心を注ぎ込み続けることは、ある程度できるに違いない。
日常の中でそれを試みていくことがきわめて大切だ。
若き日、ロジャーズを読み始めたのと鈴木大拙を読み始めたがほぼ同時であった。私のなかでは、両者が深く共鳴しあって、ロジャーズを読むことが大拙の理解を助け、逆もまた然りであった。エックハルト・トールの『ニュー・アース』もまた、ロジャーズの来談者中心療法が何を主張し、何を実践していたのかの理解を深めさせてくれる。ロジャーズにはかつて、強い影響を受けたが、瞑想を行うようになった今、そしてエックハルト・トールを読んだ今、実践的な意味でも理解が深まるような気がする。