最近、インターネットで音楽を聴く時間が多い。日によって違うが、昨晩は元ちとせとコブクロの曲をいくつか聴いた。昨晩は、コブクロの「桜」や「ここにしか咲かない花」が心に沁みた。
状況は何も変っていないのに、ここ数日、ずっと続いている問題についてあまり苦痛を感じなくなっている。苦痛を和らげるように心に蓋をしているだけなのだろうか。それとも、受け入れがたいと感じていた現実を受け入れはじめたのだろうか。たぶん前者のような気がする。
個々の苦しみや悲しみが、個々の喜びや楽しみや希望によって和らげられたり、乗り越えられたと感じられることもあるだろう。また、個々の苦しみや悲しみが「人が生きる」ということの根底にある限界状況を指し示してくれることもある。悟りは、おそらくその根源的な限界状況をどれほど深く洞察するかにかかっているのだろう。限りある「いのち」として投げ出されてあることの悲しみ。後生大事に守り続けようとする「自我」が、じつは実体のない幻でしかないことから生じる苦しみ。それが深く洞察されればされるほど、肉体や「思考する自我」との同一化から解き放たれていくのだろう。
思考するたびに、そのつどそれを自覚化し、自我にとってどんな必要があっての思考だったのかを確認する。それが「思考する自我」の相対化につながっていくだろう。
ゆめゆめ、思考に埋没するなよ‥‥という自らへの戒め。
状況は何も変っていないのに、ここ数日、ずっと続いている問題についてあまり苦痛を感じなくなっている。苦痛を和らげるように心に蓋をしているだけなのだろうか。それとも、受け入れがたいと感じていた現実を受け入れはじめたのだろうか。たぶん前者のような気がする。
個々の苦しみや悲しみが、個々の喜びや楽しみや希望によって和らげられたり、乗り越えられたと感じられることもあるだろう。また、個々の苦しみや悲しみが「人が生きる」ということの根底にある限界状況を指し示してくれることもある。悟りは、おそらくその根源的な限界状況をどれほど深く洞察するかにかかっているのだろう。限りある「いのち」として投げ出されてあることの悲しみ。後生大事に守り続けようとする「自我」が、じつは実体のない幻でしかないことから生じる苦しみ。それが深く洞察されればされるほど、肉体や「思考する自我」との同一化から解き放たれていくのだろう。
思考するたびに、そのつどそれを自覚化し、自我にとってどんな必要があっての思考だったのかを確認する。それが「思考する自我」の相対化につながっていくだろう。
ゆめゆめ、思考に埋没するなよ‥‥という自らへの戒め。