瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

瞑想合宿レポート21

2005年02月06日 | 瞑想合宿レポート
◆解釈とサティ
9日目の面接でその日の報告をした。女子生徒が女王に変化し、その女王と一体となったこと。トランプのキングのイメージを見たとき「もう、これと対抗する必要はないのだ」と感じたことなど。それがアニマとの統合だったという捉え方に先生もうなずいてくれた。そして、私の瞑想はイメージによる「形象力」に特徴があり、それが実に印象的だとの感想を伝えてくれた。

私自身は、他の人たちの瞑想との比較は分からない。しかし今回、瞑想中に様々なイメージが展開し、それが自分にとっての重要なメッセージになっていることに強い印象をもった。それは事実だ。無意識は、まるで意識的な私から独立した智者であるかのように、私に働きかけてきた。

もう一つここで確認しておきたいのはイメージと解釈の問題である。私にとってイメージをどう解釈するかは、基本的にラベリングによるサティと同じことだった。心随観で適切なラベリングが出ると、そこに深い洞察が生じる。解釈はそれと同じだ。洞察や気づきがあるところには、何かしらの変化がある。「あっ、そうだったのか」という腑に落ちる感じ、それにともなう心身の変化。だからラベリング=解釈が真実を射ていたかどうかは、自分自身にとっては明白だったのである。

◆メガネのイメージ
これに関連して面白かったのは巨大化したメガネのイメージである。そのメガネに意識を集中した瞬間に、ぼろぼろになって泣きべそをかいているメガネのイメージが来た。一瞬「瞑想による気づきに対して、図体を大きくして抵抗している。でもそれが無駄な抵抗だと自ら知っていて泣きべそをかいている」と感じた。私は、思わず一人で笑ってしまった。腑に落ちる「ラベリング」だった。

ただしメガネは、やはりその時々でかなり重層的な意味をもっていたようである。全体としては抑圧する自我の象徴なのだろうが、その時々にテーマとなっている抑圧に対応して微妙にイメージや意味を変化させているようだった。巨大化して無駄な抵抗をしたのは、アニマやそれに関連する根深い抑圧を象徴していたからだろう。しかし、その後に再びメガネは復活した。自我そのものが抑圧する機能である以上、私が自我に囚われているかぎり、メガネのイメージは続くのかも知れない。地橋先生がいうように、メガネは私の瞑想にとっての「バロメーター」の役割を果たしていくのかもしれない。
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