GHQ焚書図書開封第195回
ー乃木将軍夫妻の自決~司馬遼太郎『殉死』を批判する-
明治天皇ご大葬の日の乃木家の場面
劇作家眞山靑果の「乃木将軍」に比べて、司馬遼太郎の「殉死」では小説家らしく、想像力を働かせ具体的な場面描写に力点を置いて書かれている。更に、司馬遼太郎の独自解釈で、乃木将軍を自己演出の好きな人物、傲慢な人物として表現している。
参考文献:「乃木将軍」眞山靑果
2019/04/24に公開
GHQ焚書図書開封第195回
ー乃木将軍夫妻の自決~司馬遼太郎『殉死』を批判する-
明治天皇ご大葬の日の乃木家の場面
劇作家眞山靑果の「乃木将軍」に比べて、司馬遼太郎の「殉死」では小説家らしく、想像力を働かせ具体的な場面描写に力点を置いて書かれている。更に、司馬遼太郎の独自解釈で、乃木将軍を自己演出の好きな人物、傲慢な人物として表現している。
参考文献:「乃木将軍」眞山靑果
2019/04/24に公開
GHQ焚書図書開封第194回
ー乃木将軍夫妻の自決~眞山靑果より-
無方法
小使が、学習院長乃木大将の居室や寝室へ、用をたしに入っていくと、大将は、
「私のことは私がする。呼ばなければ、来なくともよろしい。」
すべて自分の手で始末してしまう乃木大将だった。ある日、大将が小使室へツカツカと入ってこられると、小使が云った。
「何か御用でございますか。」
「ああ、茶が飲みたくてな。」
「お茶でございますか、それならお呼びくだされば、持ってまいります。院長閣下が小使室などへ、お出向きなるものでございません。」
日頃のシッペイ返しのつもりで、思い切って云うと。
「ウン、そうか、参った。私の室へ茶を一つ持ってきてくれ。」
ニコニコしながら、あわてて帰っていかれた。今まで頑固一方の院長閣下だとばかり思っていた小使は、全く心から服してしまった。
人を心服させるのに、方法はない。
第三幕 最期の日
その一 乃木邸、将軍居間
その二 同じく階下一室
・
・
その四 邸内階下の一室
参考文献:「日本的人間」山中峯太郎、「乃木将軍」眞山靑果
2019/04/10に公開
GHQ焚書図書開封第193回
-乃木将軍と旅順攻略戦~司馬遼太郎を批判する2-
日露戦争は0次世界大戦ということができる。
203高地の戦いについて、児玉源太郎を高く評価し、乃木希典将軍を無能とまで貶めた司馬遼太郎に対し、批判した福田恒存
「近頃、小説の形を借りた歴史讃物が流行し、それが俗受けしている様だが、それらはすべて今日の目から見た結果論であるばかりでなく、善悪黒白を一方的に断定しているものが多い。が、これほど危険な事は無い。歴史家が最も自戒せねばならぬ事は過去に對する現在の優位である。
吾々は二つの道を同時に辿る事は出来ない。とすれば、現在に集中する一本の道を現在から見遙かし、ああすれば良かった、かうすれば良かったと論じる位、愚かな事は無い。殊に戦史ともなれば、人々はとかくさういう誘惑に駆られる。事実、何人かの人間には容易な勝利の道が見えていたかも知れぬ。
が、それも結果の目から見ての事である。日本海大海戦におけるT字戦法も失敗すれば東郷元帥、秋山参謀愚将論になるであらう。が、当事者はすべて博打をうっていたのである。丁と出るか半と出るか一寸先は闇であった。それを現在の「見える目」で裁いてはならぬ。歴史家は当事者と同じ「見えぬ目」を先ず持たねばならない。
そればかりではない、なるほど歴史には因果開係がある。が、人間がその因果の全貌を捉へる事は遂に出来ない。歴史に附合へば附合ふほど、首尾一貫した因果の直線は曖昧薄弱になり、遂には崩壊し去る。そして吾々の目の前に残されたのは点の連続であり、その間を結び付ける線を設定する事が不可能になる。しかも、点と点とは互いに孤立し矛盾して相容れぬものとなるであらう。が、歴史家はこの殆ど無意味な点の羅列にまで迫らなければならぬ。その時、時間はずしりと音を立てて流れ、運命の重味が吾々に感じられるであらう。」
参考文献:「乃木将軍」眞山靑果、「歴史小説の罠」福井雄三、「殉死」司馬遼太郎、「軍神」福岡徹、「乃木将軍と旅順攻略戦」福田恒存
2019/3/27に公開