n45-50

ロシア・サハリンと北海道を結ぶ架け橋ネット。
サハリン州には。、ロシア人もウクライナ人も住んでいる混住地域です。

ターニャ・サビチェワの日記

2022-03-04 10:11:18 | 情報
タチアナ・ニコライェーヴナ・サヴィチェワ(ロシア語:Татьяна Николаевна Савичева、ラテン文字表記の例:Tatyana Nikolayevna Savicheva、通称ターニャ(Таня / Tanya)、1930年1月25日 - 1944年7月1日)は、レニングラード包囲戦の渦中において『日記』を残した少女。

目次

  • 1生い立ち
  • 2ターニャの日記
  • 3その後
  • 4関連項目
  • 5関連書籍
生い立ち[編集]
ターニャはニコライ・ロディオノヴィッチ・サヴィチェフとマリーヤ・イグナチェーヴナ・サヴィチェワの末子として生まれた。父親は彼女が6歳の時に亡くなり、妻のマリーヤと二男(ミハイル、リョーカ)三女(ターニャ、ジェーニャ、ニーナ)が遺された。
一家は1941年の夏を田舎で過ごす予定だったが、6月22日に始まった独ソ戦によって彼らの計画は台無しになった。既に街を離れていたミハイル以外は全員レニングラードに残ることにした。彼らはそれぞれ軍を手伝って働いた。マリーヤは軍服を縫い、リョーカはアドミラルティ造船所で旋盤を動かし、ジェーニャは弾薬工場で地雷のケースの製造に従事し、ニーナは防衛ラインの工事に携わり、叔父のヴァーシャとリョーシャは防空部隊に参加した。11歳のターニャも塹壕を掘り爆弾を運んでいた。
ある日、ニーナが仕事に出たまま帰ってこなかった。彼女はラドガ湖へ送られ、そこから急遽市外へ脱出させられていた。しかし家族はそのことを知らず、彼女が死んだものと考えた。
ターニャの日記[編集]

ターニャの日記(右下がターニャ)


ニーナがいなくなってから数日後、母のマリーヤはターニャに姉の物だった小さな手帳を与えた。後にそれは『ターニャの日記』として知られるようになる。ターニャは厚手のノートに彼女の人生で重要なことを全て記録した、ちゃんとした日記を付けていたが、冬にストーブにくべる物がなくなってそのノートを燃やしてしまい、姉の手帳をその代わりにしたのである。
最初の記録は12月28日に姉のジェーニャの死亡から始まっている。
1941年12月28日の午前12時、ジェーニャが死んだ。(Женя умерла 28 дек в 12.00 час утра 1941 г.)
ジェーニャは、毎日まだ暗いうちに起きては7キロを徒歩で往復し、1日2交代の工場勤務ばかりか就業後の献血もした。もともと体の弱かった彼女はそんな生活を続けられず、工場で死亡したのである。それからの日々、手帳には肉親が死んだという事実とその日時だけが淡々と綴られていく。
1942年1月25日の午後3時、おばあちゃん(エフドキヤ・グリゴリェーヴナ)が死んだ。(Бабушка умерла 25 янв. 3 ч. дня 1942 г.)
1942年3月17日の午前5時、リョーカが死んだ。(Лёка умер 17 марта в 5 часутра в 1942 г.)
1942年4月13日の深夜2時、ヴァーシャおじさんが死んだ。(Дядя Вася умер в 13 апр 2 ч ночь 1942 г.)
1942年5月10日の午後4時、リョーシャおじさん(Дядя Леша 10 мая в 4 ч дня 1942 г.)
1942年5月13日の午前7時半 ── ママ(Мама в 13 мая в 7.30 час утра 1942 г.)
『日記』は次の言葉で終わっている。
サヴィチェフ家は死んだ(Савичевы умерли)
みんな死んだ(Умерли все)
残ったのはターニャだけ(Осталась одна Таня)

その後[編集]
1942年8月、レニングラードから救出された140人の子供たちがクラスヌイ・ボール村へ送られた。クラスヌイ・ボールの孤児院の教師だったアナスタシヤ・カルポワは、幸運にも1941年にレニングラードを離れていたターニャの兄ミハイルへ手紙を書いている。
「ターニャは生きていますが、とても具合が悪そうです。彼女を診た医師は重い病気だと言っています。彼女には静養、特別な看護、滋養、良い気候、そして何よりも母親の優しさが必要です」
クラスヌイ・ボール村へ送られたターニャは、1944年5月にシャトコフスキー病院に入院。わずか1ヶ月後に亡くなり、クラスヌイ・ボール村に避難した子供たちの中でただ1人の犠牲者となった。
サヴィチェフ家の中で生き残ったニーナとミハイルは戦後レニングラードへ戻り、遺されたターニャの小さな手帳は、ニュルンベルク裁判の際に連合国の検事によって証拠品の一つとして提示された。現在『日記』はレニングラード歴史博物館に、そのコピーがピスカリョフ記念墓地に展示されている。

サハリンマン談
現在、ロシアはウクライナへ軍事侵攻しています。
ウクライナでは、大勢の「ターニャ」が存在しています。
「何としても第二のターニャをつくらないで下さい。決断はプーチン大統領です。貴方の故郷、レニングラード「現サンクトペテルブルグ」のお話です。
早急にウクライナへの侵攻を停止して軍を撤退する勇気を出して下さい。」

写真 ロシア・ウクライナの国境付近
写真 戦争反対ピケ「ユジノサハリンスク市」
Ликвидация российских СМИ, за антивоенные акции отправят на Донбасс. Новости 4 марта反戦行動のためのロシアのメディアの清算はドンバスに送られます。3月4日

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島の学童は森の学校に招かれます

2022-03-04 06:09:28 | 情報

サハリンの学童と教師が「森の学校」に招待されます

 
教育ユジノサハリンスク

「Rodnik」は、3月の休暇中に学校グループを招待して、大統領助成金基金が支援する「Look intotheForestSchool」プロジェクトの参加者になります。このプロジェクトは、学童の生態学的および地域の伝承リテラシーを高め、自然科学サイクルの教師を訓練することを目的としています。

プロジェクトの主な焦点は、ブッセラグーン近くのコルサコフスキー地区にある森林エコセンターの領域で1日のフィールドプラクティスを実施することです。プログラムには、生態学的、地理的、生物学的ワークショップが含まれます。地域の動植物の研究、水域、土壌の物理的特性、生物指標法、気象観測と測定の実施、地域の歴史の問題、観光トレーニングの基本。

5年生から9年生の生徒が参加者になることができます。学校のグループや個人の募集で希望する人、自然を学ぶための実践的なスキルの習得に関心のある教師です。

春秋時代には、そのような活動がいくつか計画されています。3月25日には、地域のエコロジカルフルタイム通信学校「グリーンアイランド」の生徒が「フォレストスクール」の最初の参加者の1人になります。

10月には、サハリン州の教師向けのセミナーが、ロドニカ森林エコセンターに基づいて開催されます。セミナーは、インターンシッププラットフォーム「教師と学童のためのフィールド調査実践の組織化と実施、およびプロジェクト活動のトレーニング」の枠組みの中で、教育開発研究所と共同で開催されます。Rodnikは今年2月にそのようなプラットフォームのステータスを受け取りました、IASakh.comはRodnikプレスセンターを参照して報告します。

プロジェクトとサハリンUGMSの水文気象センターをサポートし、気象観測の実施に関するアドバイスを提供します。専門の組織や専門家が協力するよう招待されています。

参加の詳細な条件はで見つけることができます ウェブサイト..。参加は無料で、場所の数は限られています。申し込み、協力の提案、電話でのお問い合わせ:89625818713(アレクサンドラ)。

6歳以上

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