n45-50

ロシア・サハリンと北海道を結ぶ架け橋ネット。
サハリン州には。、ロシア人もウクライナ人も住んでいる混住地域です。

ヤルタ会談 密約協定 古い指導者たちの保身術 歴史を学ぶ

2011-04-12 08:43:09 | 学ぶ
 写真説明 ヤルタ会談(中央ソファー左からチャーチル・ルーズベルト・スターリン) 1945年 2月4日から11日の間 会談は8日間続けられていた。

 ヤルタ会談(ヤルタ かいだん、英:Yalta Conference)は、1945年2月4日~11日にクリミア半島のヤルタで行われた、F.ルーズベルト(アメリカ合衆国)・チャーチル(イギリス)・スターリン(ソビエト連邦)による首脳会談。

 第二次世界大戦が、佳境に入る中、ソビエト連邦(ソ連)の対日参戦、国際連合の設立について協議されたほか、ドイツおよび中部・東部ヨーロッパにおける米ソの利害を調整することで大戦後の国際秩序を規定し、東西冷戦の端緒ともなった(ヤルタ体制)。
 極東密約(ヤルタ協定) [編集]主に日本に関して、アメリカのルーズベルト、ソ連のスターリン、およびイギリスのチャーチルとの間で交わされた秘密協定。

 ルーズベルトは千島列島をソ連に引き渡すことを条件に、日ソ中立条約の一方的破棄、すなわちソ連の対日参戦を促した。
ヤルタ会談ではこれが秘密協定としてまとめられた[2] 。

 ヤルタ協定では、ドイツ降伏後90日以内にソ連が日本との戦争に参戦すること、モンゴルの現状は維持されること、樺太(サハリン)南部をソ連に返還すること、千島列島をソ連に引き渡すこと、満州の港湾と鉄道におけるソ連の権益確保、などが決められた。

 ただし、スターリンはヤルタ会談の前に対日参戦の意思を固めていたという。
スターリンの通訳によれば、スターリンが最初に日本参戦の意思を示したのは1943年10月30日夕刻、第3回モスクワ会談に参加したコーデル・ハル国務長官に対してである[3]。
ヤルタ協定に従ってドイツが無条件降伏した1945年5月8日の約3ヵ月後の8月9日、ソ連は日本に宣戦布告し満州に侵入。

 日本政府(鈴木貫太郎内閣)は8月10日、ポツダム宣言受諾を連合国側へ通告、8月15日国民に向けて終戦の詔(玉音放送)をラジオ放送し、9月2日降伏文書に調印した。

 1956年に共和党アイゼンハワー政権は「(ソ連による日本北方領土占有を含む)ヤルタ協定はルーズベルト個人の文書であり、米国政府の公式文書ではなく無効である」との米国務省公式声明を発出した。

 「したたかな指導者らは、敗戦国の分断・資産分割等を決めていた。
注目は、アメリカが自国勝戦を導くためにソ連に武器・食料を無料で贈与していた事である。
 北方諸島・樺太島に進軍したソ連軍の装備・食料は全てUSA製であった。
それは、戦車から戦闘機そしてタイヤまで広いものであった。

 その証拠(裏付け)は、「樺太(サハリン州)・旧豊原市(ユジノサハリンスク市郊外)で1944年当時に墜落したソ連軍の戦闘機が、アメリカ軍の所属と明記された軍用機」である事が確認されている。ソ連に対しての武器のアメリカからの借款である。
 
 我々は、アメリカ軍当局に、その件を確認したが、正確な返答を得ていない。
アメリカ政府は、この件 ソ連に(戦争に関する物資を拠出)した事実を隠したかった背景が、現在もある事に注目している。

 歴史は暴かれるのだ。
旧ソ連領でしたが現在ウクライナ 会談場所のソゥ゛ァディア宮殿 サハリンマン
  
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« Восточный Японии землетрясе... | トップ | 生け花 デザイン・コンテイ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

学ぶ」カテゴリの最新記事