ウラジオストクレポート⑥sugiyamenko
<与謝野晶子の詩碑>
かつて古くから日本とも交流のある、極東総合大学のキャンパスの中に、日本語とロシア語で刻まれた詩碑が建てられています。
かって隆盛を極めた与謝野鉄幹もロマン主義の衰退で、同人誌「明星」も休刊い追い込まれ、創作意欲も失いかけていた。
それをきっかけに晶子は、かねてから夫の念願であったヨーロッパ留学を実現させるために、「歌百首屏風」や、「源氏物語」の翻訳で資金調達始める。
その苦労が実り明治44年7月に、鉄幹をフランスに送り出す。
その翌年晶子は、夫の後を追いパリを目指す途中ウラジオストクへ立ち寄り、この詩を読んでいる。
この大学で日本語を学ぶ学生達に、彼女の作品は大変人気があります。
sugiyamenkoさま
何時も投稿有難うございます。歴史・地理「高校の必修科目」の勉強に力が入る今日この頃です。
与謝野昌子の碑が、極東ロシアに存在していた事に驚きです。
歌碑には、
「金の車をきしらせよ、颶風の羽は東よりいざ、こころよく我を追へ。黄泉の底まで、泣きながら、頼む男を尋ねたる、その昔にもやや劣る。昌子や物に狂うらん、燃ゆる我が火を抱きながら、天がけにゆく、西へ行く、巴里の君へ逢ひに行く。与謝野昌子」
とあります。
昌子の夫・鉄幹(詩人)を巴里留学へ導き出して日々、苦労の連続であった。
鉄幹はすでに巴里に在住していた、昌子はその夫に逢いに行く時にウラジオストクで詠んだ詩である。
1910年当時は、日本からのヨーロッパの玄関口としてウラジオは栄えていた。
本日は、日本は「文化の日」で祝日です。文化功労者には、国から賞が与えられます。
サハリン→北海道
<与謝野晶子の詩碑>
かつて古くから日本とも交流のある、極東総合大学のキャンパスの中に、日本語とロシア語で刻まれた詩碑が建てられています。
かって隆盛を極めた与謝野鉄幹もロマン主義の衰退で、同人誌「明星」も休刊い追い込まれ、創作意欲も失いかけていた。
それをきっかけに晶子は、かねてから夫の念願であったヨーロッパ留学を実現させるために、「歌百首屏風」や、「源氏物語」の翻訳で資金調達始める。
その苦労が実り明治44年7月に、鉄幹をフランスに送り出す。
その翌年晶子は、夫の後を追いパリを目指す途中ウラジオストクへ立ち寄り、この詩を読んでいる。
この大学で日本語を学ぶ学生達に、彼女の作品は大変人気があります。
sugiyamenkoさま
何時も投稿有難うございます。歴史・地理「高校の必修科目」の勉強に力が入る今日この頃です。
与謝野昌子の碑が、極東ロシアに存在していた事に驚きです。
歌碑には、
「金の車をきしらせよ、颶風の羽は東よりいざ、こころよく我を追へ。黄泉の底まで、泣きながら、頼む男を尋ねたる、その昔にもやや劣る。昌子や物に狂うらん、燃ゆる我が火を抱きながら、天がけにゆく、西へ行く、巴里の君へ逢ひに行く。与謝野昌子」
とあります。
昌子の夫・鉄幹(詩人)を巴里留学へ導き出して日々、苦労の連続であった。
鉄幹はすでに巴里に在住していた、昌子はその夫に逢いに行く時にウラジオストクで詠んだ詩である。
1910年当時は、日本からのヨーロッパの玄関口としてウラジオは栄えていた。
本日は、日本は「文化の日」で祝日です。文化功労者には、国から賞が与えられます。
サハリン→北海道