俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

農家のイメージ

2009-02-24 13:40:05 | Weblog
 私の住む町の駅前にはかつて3軒の書店があったが、3店とも潰れてしまった。本離れが進んで書店の経営が厳しくなったのだろうとは思うが、その責任を経済産業省の政策に押し付けようとは思わない。
 一方、テレビのドキュメンタリー番組などで農家の苦境が伝えられると農林水産省の責任を問いたくなる。
 このギャップは一体何なのだろうか。都会に住む人は農家の実態を知らない。マスコミから伝えられる情報が総てだ。そのためにマスコミの情報を鵜呑みにしてしまう。
 都会人の持つ農家のイメージは時代劇の農民だ。悪い代官による重税に耐え、雨にも負けず風にも負けずただ只管土地を耕す愚直なまでに勤勉な姿に感動せざるを得ない。
 現在の農家は決してこんな勤勉な農民ではない。大半が兼業農家であり農繁期にだけ会社を休んで一所懸命働く。昔のように農繁期には子供まで学校を休ませて働かせるということは無い。また専業農家の多くは老人だ。多分、農薬や機械化や品種改良のお陰でかつてよりずっと仕事が楽になっているのだろう。捻くれた見方をすれば、現在の農業は土地さえあれば老人でも勤まる楽なビジネスと考えることも可能だろう。

政治家

2009-02-24 13:10:57 | Weblog
 日本の政治家のレベルの低さは国民全員が痛感している。酒癖の悪い中川前大臣だけではなく、なぜこんな奴が国民の代表なのかと思うほど低レベルの政治家が余りにも多過ぎる。政治家は国民が選ぶのだから日本国民の大半が馬鹿だから駄目な政治家を選んでしまうのだろうか。
 逆説的な言い方だが、政治家になるためには厳しい競争があるから政治家の質が下がっていると考えざるを得ない。
 厳しい競争が最適化ではなく劣化を招くのはどうしてだろうか。これは進化の法則に背かないのだろうか?
 このことは就職競争を例にすれば分かり易い。広告業界は大学生に人気があり、最大手の電通や博報堂などの広告代理店に就職することは至難の業だ。その結果として一流の広告代理店の社員は大手企業の子息が圧倒的に多くなってしまっている。広告代理店としては優秀な「馬の骨」よりはフツーの能力の「二世」のほうが好ましい。もし二世を採用しなければその親父からどんなしっぺ返しをされるか分からない。これが過当競争の生む弊害だ。
 本来、優れた人材を集めることに繋がる筈の厳しい競争が、親の七光という要素が加わることによって、能力とは別の基準による選別を生む。広告代理店だけではない。大手民間テレビ局も同じような状況だ。
 マスコミだけではない。実は私の勤務先でさえそうだ。一応、一部上場企業とは言え、決して一流企業とは言えない企業だが、大学卒で同期入社した者は私以外の全員が縁故採用で、私だけが「馬の骨」だ。
 政治家は儲かるから多くの人が政治家を目指す。儲かるから競走が厳しくなって「馬の骨」の入る余地は無くなる。知名度の高い所謂タレント候補や、地盤・看板・鞄を持つ二世候補に馬の骨は敵わない。皮肉なことに競争の厳しさが人材の流入を拒んでいる。
 政治家が儲からなければ構図は全く変わる。社会貢献を目指す者しか政治家を志さなくなる。
 政治家が厚遇され過ぎるから政治家への道が狭き門になっている。政治家の待遇を下げることによって二世や著名人以外の普通の人が政治家になることが可能になる。
 日本の政治家の待遇は良過ぎる。良過ぎるから欲の皮の突っ張った者が政治家を目指す。政治家である親は儲かるビジネスだから自分の息子や娘も政治家にしようとする。政治家の待遇を下げてボランティアに近いものにすれば、社会に貢献したいと考える普通の人に政治家への道が開ける。
 逆説的な発言だが、政治家の待遇を悪化させることが日本の政治家のレベルを上げるための唯一の選択肢だろう。公務員の賃下げについてはしばしばマスコミで取り上げられるが、政治家の賃下げについて余り議論されていないのは不可解だ。

人間の可能性

2009-02-24 12:54:29 | Weblog
 「人は誰でも泳げる」と言えば金槌の人から反論されるだろう。しかし人間の体は水に浮くし首はうしろに曲がるから機能的には100%泳げる条件を充たしており、特殊な障害を持つ人以外は誰でも泳げる。たまたま泳ぎを習う機会の無かった人だけが泳げない。
 犬は泳ぎを習わなくても泳げるが人間は習わないと泳げない。この違いは、人間の本能が「可能性」としてしか備わっていないからだ。人間には様々な才能があるが、それは「育成」されなければ能力として発揮されない。二足歩行でさえそうだ。もし立って歩くことを習わなければその「ヒト」は一生4つ足で歩く。言葉も同様に教わらないと身につかない。
 人間は他の動物と比べて極端に「未成熟」な状態で生まれる。未成熟だからこそ様々な能力を獲得する可能性を持つ一方、育成されなければ何もできない。
 人類は原人の時代も含めれば何百万年に亘って群居動物として生存して来た。これだけ長く群居動物として暮らせば自然淘汰によって群居本能を持つ筈だ。しかし人間は群居本能など持ってはいない。群居に適応できる「可能性」を持っているだけだ。「可能性」しか持たないから育成されなければ周囲と良好な関係を保つ能力を身に着けることはできない。育成されなかったヒトは獣以下の不完全な動物にしか成れない。
 思い遣りや慈悲は群居動物として当然の感情だ。この群居動物として当然の感情を育成し損ねると「人でなし」に成ってしまう。最近こんなヒトが増えているのは嘆かわしいことだ。