俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

安物

2009-06-09 15:42:14 | Weblog
 「安物買いの銭失い」とか「安物は高物」とかいった諺がある。どちらも安い商品はその価格相応の価値しかなく、結局は損をする、という意味だ。しかし本当にそうだろうか。
 誰の創作か知らないが昔からこんな話がある。
 関東人は価格の高さを自慢し、関西人(特に大阪人)は安く買ったことを自慢するという。例えば関東人は「このバッグは20万円した」と自慢する。一方、関西人は「このバッグなんぼやと思う」と尋ねて答えを得てから「それなら10個買える」と言って自分の目利きを自慢する。
 私は関西人の感覚のほうが健全だと思う。商品の価値は使用者が決めるべきであり「安くて良い物」は幾らでもある。大阪の「食い倒れ」のコンセプトは「安くて旨い」だ。安くて良い物を見つけ出せる人こそ「違いの分かる人」だ。違いの分からない人に限って、自分で判断できないから価格やブランドに頼らざるを得ない。
 あるデパートには時々こんな客が来るそうだ。「一番高いスーツをくれ」と言って現金で買っていくそうだ。高いということは付加価値も高いに違いないと思っているのだろう。こんな違いの分からない人に買われていればそのブランドの価値も下がる。

品格

2009-06-09 15:31:45 | Weblog
 近頃「品格」という言葉が乱発されている。当初はこの言葉を好意的に捉えていたが「○○の品格」というタイトルが乱発されるに連れてこの言葉から「品格」が失われた。
 品格は必要なことだ。しかし昨今使われている「品格」は既存価値の信奉者がその価値を肯定するために「品格」という言葉を利用しているにすぎない。昔からそうだったとか「通」はこうしているということは決して「品格」ではない。
 「高貴とは何か」は重要な哲学的テーマだ。しかしそれが重要であるのは、既存の価値体系が権力者によって偽りの価値体系に歪められているからそれを是正せねばならないからだ。偽りの価値を否定するために本当の「高貴」とは何かを問わねばならないからだ。
 既存価値こそ由緒と伝統があるから品格があるという考え方は権威主義以外の何物でもない。品格という言葉を利用して既存の価値体系を温存しようという姿勢こそ真理に対する品格を欠いている。

冤罪

2009-06-09 15:07:42 | Weblog
 1人の人が殺されたとする。ある人が容疑者とされその人が真犯人である確率が60%とすれば期待値は1×0.6=0.6人となる。
 10人の人が殺された場合、容疑者が真犯人である確率が20%なら期待値は10×0.2=2.0人となる。
 数学としてはそれなりに筋は通っているがどこか変な理屈だ。日本ではこんな変な理屈がまかり通っているのではないだろうか。連続殺人犯や無差別殺人犯や児童殺害犯はかなりの確率で逮捕されほぼ確実に有罪しかもかなり重い実刑になっている。
 結果が重大であろうが無かろうが、最初に判定すべきなのは犯罪を行ったかどうかであって、結果の重大さが真犯人である可能性を高める訳ではない。まず容疑者が真犯人かどうかを明らかにすべきであって、真犯人と確定した後から事の重大さに応じてそれに相応しい量刑を課するべきだろう。事件の重大性が犯人をでっち上げて冤罪を生む原因となっていないだろうか。
 私は3つの事件を頭に置いている。足利事件と砒素カレー事件とロス疑惑事件だ。
 この3つの事件で最も真犯人の可能性が高いのはロス疑惑の故・三浦容疑者だろう。共犯者は有罪判決を受け既に刑も執行された。それにも関わらず三浦容疑者が無罪となったのは被害者が彼の妻1人だったからではないだろうか。1×99%=0.99<1という数式が働いたのではなかろうか。
 一方、足利事件では被害者が4歳の女児ということから80年分の命を奪ったということになり大人の2倍可哀相という心理が働いて1×2×60%(可能性)=1.2という数式が働き、また砒素カレー事件(4人死亡)では4×50%(可能性)=2という数式が働いたのではないだろうか。繰り返すが結果が重大だということは容疑者が真犯人である可能性を高める訳ではない。重大な犯罪こそ慎重に裁かれねばならない。