「交通マナーを守ろう」というスローガンはおかしい。守るべきものはルールであって、マナーで秩序を守ることは困難だ。
ルールとマナーとモラルはしばしば混同して使われる。例えば「政治家のモラルが低下した」と言うが、その時その政治家のやった行為は大抵、違法行為だ。モラルの低下ではなくルール破り(犯罪行為)だ。
マナーやモラルは格率に過ぎず、社会的な強制力は無い。仮に背いても非難されることはあっても罰されることは無い。そんな曖昧な自主的な約束事だ。
ルール違反は違う。これは罰される。それを決めたのはこれまでの政治家だ。
飲酒運転は危険だから禁止されている。「飲酒運転をやめましょう」というモラルに訴えるキャンペーンが長年に亘って行われたが成功しなかった。ところが厳罰化されたらアッと言う間に激減した。
いじめの問題もモラルの問題に摩り替えると「みんな仲良くしましょう」という抽象的な目標に終わる。むしろ暴力や恐喝という犯罪として捕らえたほうが良かろう。
ルールはルールとして国民に守らせるのが「公」の役割だ。「公」の責任を放棄してあたかも「民」のマナーの低下が原因であるように責任転嫁するような理屈に乗せられるべきではない。
ルールとマナーとモラルはしばしば混同して使われる。例えば「政治家のモラルが低下した」と言うが、その時その政治家のやった行為は大抵、違法行為だ。モラルの低下ではなくルール破り(犯罪行為)だ。
マナーやモラルは格率に過ぎず、社会的な強制力は無い。仮に背いても非難されることはあっても罰されることは無い。そんな曖昧な自主的な約束事だ。
ルール違反は違う。これは罰される。それを決めたのはこれまでの政治家だ。
飲酒運転は危険だから禁止されている。「飲酒運転をやめましょう」というモラルに訴えるキャンペーンが長年に亘って行われたが成功しなかった。ところが厳罰化されたらアッと言う間に激減した。
いじめの問題もモラルの問題に摩り替えると「みんな仲良くしましょう」という抽象的な目標に終わる。むしろ暴力や恐喝という犯罪として捕らえたほうが良かろう。
ルールはルールとして国民に守らせるのが「公」の役割だ。「公」の責任を放棄してあたかも「民」のマナーの低下が原因であるように責任転嫁するような理屈に乗せられるべきではない。