俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

マナーによる秩序

2009-06-16 19:22:41 | Weblog
 「交通マナーを守ろう」というスローガンはおかしい。守るべきものはルールであって、マナーで秩序を守ることは困難だ。
 ルールとマナーとモラルはしばしば混同して使われる。例えば「政治家のモラルが低下した」と言うが、その時その政治家のやった行為は大抵、違法行為だ。モラルの低下ではなくルール破り(犯罪行為)だ。
 マナーやモラルは格率に過ぎず、社会的な強制力は無い。仮に背いても非難されることはあっても罰されることは無い。そんな曖昧な自主的な約束事だ。
 ルール違反は違う。これは罰される。それを決めたのはこれまでの政治家だ。
 飲酒運転は危険だから禁止されている。「飲酒運転をやめましょう」というモラルに訴えるキャンペーンが長年に亘って行われたが成功しなかった。ところが厳罰化されたらアッと言う間に激減した。
 いじめの問題もモラルの問題に摩り替えると「みんな仲良くしましょう」という抽象的な目標に終わる。むしろ暴力や恐喝という犯罪として捕らえたほうが良かろう。
 ルールはルールとして国民に守らせるのが「公」の役割だ。「公」の責任を放棄してあたかも「民」のマナーの低下が原因であるように責任転嫁するような理屈に乗せられるべきではない。

差別社会ニッポン

2009-06-16 19:05:38 | Weblog
 アメリカでは人種や性や年齢による差別は禁止されている。唯一、能力による差別だけが許されているそうだ。このことが決してタテマエではないということはオバマ氏やヒラリー・クリントン氏やライス氏の活躍を見れば明らかだ。
 翻って日本ではどうだろうか。日本ではあらゆる差別が「悪」とされている。ところがこれが全くのタテマエでしかない。タテマエだから社会には差別が横行する。
 人種どころか民族や「」に対する差別がある。男女による差別もある。容姿による差別もあれば人柄による差別もある。
 但しビジネスに限れば、容姿による差別と人柄による差別はタテマエとは逆にある程度認められても良いと思う。
 容姿の良し悪しは決して軽んじられるべきことではない。「人は見かけが9割」という本がベストセラーになったように、見た目は大切だ。例えば悪党顔をしていればそれだけでまともなセールスマンとして成功する可能性は極めて乏しい。また人柄の良し悪しで差別すべきでないと考える日本人は実際にはごくごく少数だろう。
 タテマエに反し、無茶苦茶であるにも関わらず公認されているのが年齢による差別だ。なぜ60歳になったという理由だけで本人の資質に関わらずクビにされるのか理解できない。「定年」という概念が常識になっているから問題にされていないが、国際的な常識から見れば異常な制度だ。こんな制度が差別と感じないということに日本人の常識の異常さを感じる。
 差別には良い差別も悪い差別もある。良い差別を「区別」と言い換えるようなレトリックに頼るのではなく差別の必要性および不当性について改めて検証してみる必要がある。

割り箸

2009-06-16 18:51:05 | Weblog
 例によってヘソ曲がりなことを書くが、割り箸という食器は世界に誇るべき「優れ物」だと思っている。日本文化の一翼を担っているとまで言いたい。
 森林伐採だから地球温暖化の一因になるなどとどこの阿呆が言い出したのか知らないが、貴重な木材をたかが割り箸を作るために浪費する筈が無い。割り箸や爪楊枝が間伐材や木屑から作られていることは常識だ。言わばゴミの再利用だから極めてエコロジカルな商品だ。
 一方、洗浄して何度も使われる塗り箸はどうだろうか。塗る工程でどれだけ資源が使われるか、あるいは洗う工程でどれだけの洗剤や水やエネルギーが消費されていることだろうか。
 こういったことを全く考えずに「使い捨て=資源の浪費」という偏見に満ちた考えに基づいて「割り箸=資源の無駄遣い」という不思議な思考形態を日本人に定着させたのは誰の陰謀だろうか。
 塗り箸の欠点はそれだけではない。洗いが不十分な場合は不潔だ。ファーストフード店で食べカスの残った汚い塗り箸を何度か見た。そのうち塗り箸を経由した伝染病の感染も起こり得る。
 割り箸こそ環境に優しく清潔な食器であり、再利用再々利用される塗り箸は環境負荷が高く不潔な食器だ。