俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

社会的動物

2009-09-15 16:12:59 | Weblog
 人間は社会的動物だ。ある意味では蟻や蜂と似ている。しかし蟻や蜂とは全く逆の特性を持つ社会的動物だ。
 蟻や蜂は自分の行為を選択することができない。働き蜂として生まれたら働き蜂にしかなれない。これは世襲のような生易しいものではない。本能が行動すべきことを総て決めてしまう。選択の余地は全く無く総ては予め本能が決める。
 人間の場合は本能が壊れてしまっている。従って本能によって支配されることは殆ど無い。古い言葉を敢えて使えば「自由意志」によって行動は選択される。
 自由な意思を持つからこそ社会的動物である筈の人間でありながら反社会的人間も現れる。逆説的な言い方だが、反社会的人間の存在は人間が自由であることの証明とも言えるだろう。

学習

2009-09-15 15:59:56 | Weblog
 カントの「教育学講義」において「人間は教育によって人間になることができる」と並んで有名な「人間は教育されねばならない唯一の被造物だ」という言葉は残念ながら間違っている。多くの哺乳類だけではなく鳥類の一部でさえ教育(学習)を必要とする。
 ウグイスは学習をしないと「ホーホケキョ」とは鳴けない。「ホーホケキョ」と鳴けなければメスを呼び寄せることができないので、その結果そのオスは子孫を残せないことになる。
 猿の場合はもっと深刻で、人工的に育てられると交尾も育児もできなくなってしまう。類人猿ばかりではない。多くの肉食の哺乳類も学習が必要だ。親から狩の仕方を教わらなかった肉食獣は下手なハンターになってしまい餓死するか、大変な苦労を重ねて自力で学習をして何とか生き延びる。
 本能に従っていれば生きられる筈の動物でさえ教育(学習)が必要なのだから、本能が壊れた動物である人間が教育されなければ動物以下になってしまうのは当然のことだ。
 本能という生存戦略を持つ獣は学習を欠いてもかろうじて獣であり続けられるが、本能が壊れた人間は学習をしなければ獣にさえなれない。正に「獣にも劣る人間」になってしまう。

馴養

2009-09-15 15:43:15 | Weblog
 「人間は教育によって人間になることができる」とカントが「教育学講義」に書いていることを、恥ずかしながら最近初めて知った。教育学では常識となっているカントの言葉を知らずに自分のオリジナルだと思っていた。お恥ずかしい次第だ。改めて勉強不足を痛感した。
 負け惜しみで書く訳ではないが、教育には2面性がある。「育成」と「馴養」だ。
 前者は本来の意味の「教育」であり説明は必要無い。問題は後者だ。
 権力者は市民(citizen)を家畜にしようとする。権力者にとって扱い易い従順な大衆にしようとする。権力者が意図的に流す情報を無批判に鵜呑みさせようとする。社会のため、あるいは会社のために役に立つ「社畜」に改造しようとする。馴養のカリキュラムは人間を家畜化するためのものだ。
 このような市民の社畜化が「教育」の名の元で行われている。アメリカの多くの州では進化論は教えられていないし、北朝鮮や中国の教科書に至っては嘘で塗り固められている。
 「教育」の名の元で行われる「馴養」こそ「育成」の最大の敵だ。それが育成か馴養かは、残念ながら自分で判断するしかない。教育によって育まれた「誠実性」と論理力が馴養という人間を劣化させるシステムを拒んでくれることを期待する。