俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

歩道の自転車(2)

2011-01-11 16:16:01 | Weblog
 私は歩道を走る自転車にしばしば憤りを感じる。道路交通法を無視しており危険だからだ。国民は法律を守る義務がある。国民だけではない。外国人旅行者でさえその国の法律を守らねばならない。知らないということで罪を免れることはできない。
 なぜ歩道が無法地帯になったかについて私は①運転者の無知②警察の怠慢③学校の怠慢、と考えていた。もう1つ大きな原因があった、マスコミの怠慢だ。
 1月6日の朝日新聞の夕刊の社会面トップで「自転車 危険も加速」という記事が掲載されていた。その中で2007年7月に政府が発表した「自転車安全利用5則」が取り上げられていたが、恥ずかしい話だが私はこの5則の存在を知らなかった。
 私のように歩道の自転車問題に関心を持つ者でさえ知らないのは殆ど報道されなかったからだろう。もし市川海老蔵氏の事件並みに報道されていたら誰でも知っている筈だ。
 「自転車安全利用5則」は①自転車は車道が原則、歩道は例外②車道は左側を通行③歩道は歩行者優先で車道寄りを徐行④安全ルールを守る⑤子どもはヘルメットを着用、となっている。
 この5則は守られているだろうか。相変わらず無視されている。もし本気で改善するつもりなら飲酒運転などの違法行為と同様に警察が取り締まらねばならない。警察の仕事は加害者を捕まえるだけではない。事故を未然に防ぐことのほうが重要だ。
 9日の夜のNHKのニュースでは皇居周辺ランナーの危険性について特集をしていたがこんなローカルなニュースよりも全国で問題化している歩道の自転車について特集して一大キャンペーンをすべきだろう。

困った時

2011-01-11 16:00:10 | Weblog
 「困った時の神頼み」という言葉がある。しかし困った時にはどうすべきだろうか。自ら全力を尽くしつつ仲間の最大限の協力を得て苦境を乗り越えるべきだろう。困った時に神様任せにすることは無責任そのものと思える。
 平常時の運営は易しい。前例を踏襲していれば大過無く過ごすことができる。大切なのは苦境を乗り切る力だ。
 「人事を尽くして天命を待つ」という言葉もある。結果がどうなるかは分からないが、自分達としては最善を尽くした上で結果を待つということだ。困り果てて神様に頼り切るのとは全く逆の姿勢だ。
 当たり前の話だが、人間にはできることとできないことがある。天気を変えることは今の科学ではできない。天気については文字通り運を天に任せるしかない。但し天気は変えられなくても天気に対する対応なら変えることができる。同様に景気を変えることは困難だが不景気に対応することはできる。むしろ不景気であることを無視して冒険的なビジネスに挑んだり、不景気だからと言って総てを諦めたりすることのほうが有害だ。事実を認めた上で可能な範囲で対応すべきだろう。
 困った時こそ神様に頼ってはならない。英語には「天は自ら助くる者を助く」という諺がある。自助努力を怠っての神頼みなど絶対にすべきではない。神頼みに応える神様など有害でさえあろう。それは神の仮面を被った悪魔ではないだろうか。

我欲

2011-01-11 15:33:31 | Weblog
 私は生きがいとは捏造されるべきものだと考えている。意味も無くこの世に投げ出された人間に目的などあろう筈が無い。「人はみんな目的や意味を持って生まれて来た」などとほざく人は大嘘つきだ。
 但し意味も無く生まれたという理由で生を否定したり軽視したりするつもりは全く無い。生は「場」だからだ。何かをするためには生きていなければならない。生きていなければ「無」になってしまう。存在しない者には何もできない。
 何かをすることに社会的な意味付けを求めるのは人間の奇妙な性癖だ。社会のような曖昧なものになぜ頼らねばならないのだろう。社会のような気紛れで無節操なものに支配されるべきではない。意味は自分で作るべきものだ。
 社会的に価値のあることが個人にとっても価値のあることだという歪んだ考えが世を支配しているが、これも間違った考えだ。なぜなら人間は社会的動物であるのと同時に個別的動物だからだ。100%社会的動物であるアリやハチとは違う。個別的動物にとって重要なのは「我欲す」だ。「我欲す」という心が衰弱すれすればその代替として「皆欲す」が現れる。これは自我の弱体化という病だろう。
 利他主義も歪められた感情だ。利他主義者の犠牲によって利己主義者が得をするので奨励されているに過ぎない。曖昧でご都合主義的な他者の意志よりも明確な自己の意志こそ重視すべきだろう。