俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

ヘルシーな病人

2011-07-01 15:30:57 | Weblog
 厚生労働省の基準によるとBMI(体重÷身長÷身長)が18.5未満が痩せ型、18.5以上25未満が普通、25以上30未満が過体重、30以上が肥満とされている。この基準値は大いに疑問だ。
 既に多く指摘されているとおり過体重とされている人のグループが最も長寿だ。大抵のデータがそれを裏付けており、過体重の次に長寿なのが標準体型、その次が肥満、ズバ抜けて短命なのが痩せ型となっている。これらのデータを見る限りBMIは肥満診断に使うよりも痩せ過ぎ診断に使ったほうが有効だろう。
 日本人女性の痩せ願望は病的なレベルに達している。しかも社会がそれを助長している。低カロリー食をヘルシー食と呼び、ガリガリに痩せた芸能人をテレビや雑誌で持て囃し、医師は痩せ過ぎを放置する。「ヘルシー志向」が短命化を招いているとは奇妙なことだ。
 多分BMI基準を見直すべきだろう。各数値ごとの細かいデータが見当たらないので山勘でしかないが、17未満を病的痩せ過ぎ、17以上22未満を痩せ型、22以上27未満を普通、27以上32未満を過体重、32以上を肥満と改めたほうが良かろう。この場合、重点的に健康指導をすべきなのは病的痩せ過ぎと肥満だ。現行基準でも肥満以上に痩せ型への健康指導が急務だろう。
 メタボリックシンドロームの腹囲にも見られるように、医師は痩せることを奨励し過ぎる。命を預かる仕事なのだからもっと真剣に取り組んで欲しいものだ。

共有

2011-07-01 15:16:45 | Weblog
 私はかなり極端な個人主義者だ。リバタリアンに近いとさえ思っている。しかし妙に共有に関心を持っている。
 一人で暮らすよりは家族と暮らすほうが有利だ。キッチンやトイレや家電などは共有できるし役割分担をすればお互いが補完関係になれる。
 企業では机も椅子も電話もパソコンも共有物だ。私物は文具ぐらいだ。共有するから無駄が少ない。
 個人主義者は私有が大好きだ。それは私有することによって他者からの干渉を避けられるからだ。自分の物をどう使おうと自分の勝手だ。私有物ならどう手を加えようとも構わない。本に書き込もうと切り抜こうと自由だ。私有物は好きなように扱える。共有物ならそうではない。
 私は50本ほど傘を持っている。外出時に雨に会ったら買うが殆んど置き忘れることがないからだ。これは馬鹿げた私有だ。共有したほうがずっと合理的だ。
 資本主義のシンボルとも言える株式会社は、実は共有されている。不特定多数の投資家が株を買って共有するのが株式会社だ。共有は資本主義とも個人主義とも矛盾しない。
 子ども手当てよりも保育所や教育施設の充実のほうが良い。個人への武器の供与よりも治安の改善のほうが望ましい。自給自足よりも貨幣経済のほうがずっと合理的だ。都会では自動車よりも電車による移動のほうが便利だ。私有よりも快適な共有の例は幾らでも挙げられる。共有というシステムをもっと拡充できないものだろうか。

2011-07-01 14:57:04 | Weblog
 薬の大好きな人がいる。慢性病の薬だけでは飽き足らずサプリメントまで常用している人もいる。私は薬を毒物と考えるのでおぞましい光景と感じるが本人は健康に良いと信じているのだろう。
 健康のためなら死んでも良いとさえ考える人までいるようだ。秦の始皇帝は特効薬と信じて水銀や砒素などが含まれた薬物を摂取していたそうだ。毒は薬にもなり得るが、こんな成分は百害あって一利無しであり、かえって寿命を縮めたことだろう。
 日本で処方される薬は始皇帝の薬ほどには危険ではなかろうが薬の有毒性はもっと知られるべきだ。製薬会社がスポンサー様としてマスコミを牛耳っているだけに困難なことだろうがNHKとミニコミが啓蒙に努めるべきだろう。
 始皇帝は不老不死の薬を求めて東海にあると信じられていた蓬莱山へと徐福を派遣したが徐福は様々な穀物や宝物を積み込んだ船と共に消息を絶った。これが日本の文明の礎になったという伝説がある。
 健康のために死んでも良いとは思わないが、認知症にならないためなら命を懸けても構わない。呆けたクソ爺になる前に死んでしまいたい。足腰が衰えても自分ではあろうが、思考力が失われた自分を自分とは認められない。認知症の状態で生き延びることはチューブ巻きの状態で生かされるようなものだ。認知症が悪化する前に自ら命を絶ちたいが、それを自分で判断することは困難だ。認知症に罹ったら自分を認知症だと判断することはできない。自分が認知症だと判断できるのは認知症に罹っていない人だけだ。つまり認知症に罹った人も罹っていない人も自分は認知症ではないと判断する。嘘つき村のパズルのようなパラドクスだ。