俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

ポピュリズム

2011-07-12 13:59:15 | Weblog
 ポピュリズムを頭から否定するつもりはない。民意を無視する政治よりはマシだ。しかしポピュリズムが最優先の政治はあり得ない。芸能人による人気集めのためのパフォーマンスのようなものだ。
 菅首相は当初「強い財政・経済・社会保障」を主張し、その後、雇用重視やTPPや太陽光パネル1000万戸などを思い付くままに提唱した。多くは酷評されたが浜岡原発の停止だけは概ね高く評価された。
 唯一評価された浜岡原発にポピュリストの首相は味を占めたのだろう。反原発のスタンスさえ採れば人気を集められるというナントカの1つ覚えから突然ストレステストを主張した。二匹目のドジョウ狙いだろう。
 軽率過ぎる。大衆の支持を得ることしか考えない場当たり政策は政治ではない。余りの無軌道振りに国民が愛想を尽かしたから今回の支持率15%{朝日新聞)という評価へと繋がったのだろう。菅首相は政治を芸能人のパフォーマンスと同レベルに考えて人気取りに励んでいるのだろう。政治とは本来長期的展望も視野に入れた総合的判断だろう。場当たり的な思い付きが通じる世界ではない。
 最も典型的なポピュリズムは古代ローマ帝国の「パンとサーカス」だろう。皇帝は食と娯楽の大盤振る舞いをすることによって市民の歓心を買おうとした。こんなバラ撒き政治は奴隷制を前提としても成り立たなかった。当然現代日本で通じる筈が無い。最近では「国民一流・経済二流・政治三流」と言われる国の国民は政治家よりもずっと真剣に社会のことを考えている。政治家も芸能人も人気商売だが、本業を疎かにして人気集めしか考えなければ支持を失う。

安全性

2011-07-12 13:42:50 | Weblog
 原発と放射線に関する議論は虚しい。科学的に安全かどうかではなく政治的に安全性が議論されている。そんなスタンスだから安全宣言をした筈の原発が一夜にして安全でない原発に化けるのだろう。
 安全性が政治的問題であれば死に体の菅内閣ではこの問題を解決できない。政治的に責任を取れないからだ。これは瀕死の重病人を保証人にするようなものだ。政府が安全を保証するとは国が責任を負うということであり、もうすぐ崩壊すると分かっている菅内閣による安全保証など何の価値も無い。
 安全かどうかはかなり微妙な問題だ。例えば風速何m以上の暴風なら危険だろうか。暴風警報が出るまでなら安全だと考える人は殆んどいないし、一方、暴風警報が発令されても気にしない人もいる。
 食品には消費期限や賞味期限が明示されているが、私は1日後ぐらいなら平気で食べる。モヤシ以外の野菜はもっと曖昧だ。キャベツの消費期限は一体何日なのだろうか。私にはさっぱり分からない。
 安全性の議論は一旦政治から離れる必要がある。電力供給量とか被災農家への支援とかいった「雑念」を取り払って純粋に科学的に検証すべきだ。科学的に調べて正確なデータを公開することが優先課題であり、事実に基づいて安全かどうかが検証されねばならない。政治家が政治的思惑に基づいておかしな安全宣言をするから放射線汚染牛が市場に出回る。今なお野菜も魚も肉も安全ではない。

生命尊重

2011-07-12 13:26:12 | Weblog
 生命尊重を否定する気はない。しかし生命尊重が最優先になったら困ったことになる。犯罪者が人質を取ったら警察は対応できなくなる。犯人のどんな要求でも呑まなければならなくなるからだ。
 生きることそのものが目的になってしまった場合、いかに生きるかは問われなくなる。たとえチューブ巻きの状態であろうと生きていることそのものに価値があるのなら延命行為は肯定される。
 私は「生」を「場」あるいは「舞台」と位置付けている。場や舞台が無ければ人は何もできないから大切だ。しかしだからと言って場や舞台を最高価値とは認められない。それは空気を最高価値と評価するようなものだ。人は空気が無ければ生きられない。しかし空気を守ることを人生最大の目標とすることは馬鹿げている。
 生命も空気も水も大切だ。しかしそれらを維持するために命を懸ける訳には行かない。欲求の5段階の第一段階の基礎的生存条件にばかり拘泥していれば第二段階以上へは上がれなくなる。
 生きるのは「何か」をするためだ。チューブ巻きのような何もできない状態に陥った時、人は人間としての尊厳性を失う。正に植物人間だ。そんな状態で生き長らえても意味が無い。
 基礎的生存条件を目標にすることは余りにも空虚だ。生命を維持することだけではなくより高次元な「どう生きるか」が問われるべきだろう。ホイジンガーのホモ・ルーデンス(遊びを楽しむ人間)はそれに対する1つの答えだろう。