俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

スポーツ観戦

2014-09-24 10:27:19 | Weblog
 スポーツ観戦が好きな人は2種類いると思う。勝ち負けに拘る人と一流アスリートの妙技を楽しむ人だ。前者は贔屓のチームや選手が勝つことを最優先にする。彼らにとって競技とは筋書の無いドラマだ。贔屓チームが負けそうになるとハラハラドキドキを通り越して怒り始める。
 後者は敵味方を問わず良いプレイを楽しむ。私はこちらのタイプで特に野球の内外野手の好プレイを見るのが大好きだ。
 5日のボクシングも感動した。負けた八重樫選手の逃げないボクシングは素晴らしかった。観客も同じ思いだったようで敗者を讃える拍手が鳴りやまないという極めて珍しい光景だった。
 勝ったローマン・ゴンザレス選手はとてつもなく強かった。プロアマ通じて127戦無敗という戦績からも分かるようにスピード・テクニック共に最高レベルの選手だ。パウンド・フォー・パウンド(全階級で最高の選手)は彼かウェルター級のフロイド・メイウェザーのどちらかだろうと思う。
 昔はスポーツ中継も勝ち負けに拘り過ぎていた。「前畑頑張れ!」のような実況中継を今やれば多分非難されるだろう。今でも関西の某球団のファンは贔屓の引き倒しをすることがあるがこれは県(府)民性だろうか。
 サッカーのワールドカップで日本も韓国も一次リーグ最下位で敗退した。しかし帰国時の空港での光景は全く対照的だった。日本代表は大歓迎されたが韓国代表はまるで国賊のような扱いで飴を投げつけられた。これも国民性の違いだろうか。今開催中のアジア大会でもあちこちで歪んだナショナリズムが発揚されている。困ったものだ。
 今はどうか知らないが、一時期、小学校の運動会で手を繋いでゴールすることが推奨されていた。これは結果の平等を信奉する一部の親の意向が反映されたのだろう。勝ち負けしか見ないから「負けた子が可哀想」という発想になる。児童が一所懸命に走っている姿を健気とは感じないのだろうか。
 小学生の頃、体育の授業で「ヒットとは正しく打つこと」と教わったせいか、私はクリーンヒットが好きでボテボテの内野安打を余り評価しない。メジャーリーグで当初、松井選手がgrounder king(ゴロ王)と酷評された時、妙に納得したものだ。
 やはり野球観戦では投手の速い球と鋭い変化球、打者の強烈な打球、野手の華麗な守備を楽しみたい。勝つ・負けるにしか興味を持たない人はそれだけ観戦の楽しみを損なっている。勝ち・負けは確かに重要であり、選手も監督も勝つために頑張っているし勝者は美しい。しかし敗者が醜いとは思わない。結果としての勝敗よりもそれに至るプロセスを楽しみたいものだ。

資源

2014-09-24 09:45:29 | Weblog
 資源は有限だから奪い合いになる。それが貴重なほど激しい奪い合いが起こる。19世紀のアメリカのある農場で砂金が見つかった。農場主はこのことを秘密にしようとしたがどこからか情報が漏れて瞬く間にこの農場は大勢のゴールドハンターによって不法占拠され勝手に町が作られた。この不法占拠によって生まれた町が現在のサン・フランシスコだ。
 漁業は早い者勝ちだ。逸早く魚群を見つけて一網打尽にしてしまえば獲物を独り占めできる。だから多くの漁船は多少燃費が悪くても強力なエンジンを搭載しているそうだ。近海の魚を獲り尽くしても魚は沖から湧いて来る。沢山獲らなければ損だ。こんな分捕り合戦を続けているからスケトウダラやマグロなどの水産資源が枯渇するのは当然だ。ウナギの稚魚の捕獲制限が日中韓台で合意されたがどの程度守られることやら。自分が獲らなければ他人が獲るのだから少しでも多く獲ろうとする。この心理は砂金を漁るゴールドハンターと同じだ。
 狩猟採集民は決して協調的ではなかっただろう。獲物は少なく獲った者勝ちなのだから家族以外の他者は競争相手でしかない。できればいなくなって欲しい邪魔者だ。ゼロ・サムの社会であれば、誰かが多く取れば他の人の取り分は減る。つまり他者の取り分を減らせば自分の取り分が増えるということだ。
 人が協調的になったのは農業を始めてからではないだろうか。農業によって資源が定量ではなくなった。定量の資源を分け合えばゼロ・サムにしかならないが、増やすことができる不定量であればゼロ・サム状態ではなくなる。協力すれば食料が増やせるということになれば敵対するよりも協力したほうが有利だ。
 勿論、一足飛びで高度な農業が可能になる筈が無い。その過渡期のモデルになるのが青森県の三内丸山遺跡だろう。未だ全貌が解明されてはいないが、縄文時代から既に大規模な集落があり栗などが栽培されていた。
 資源が有限だから争いが起こる。農業のように協力すれば資源が増えるのであれば争いは起こりにくくなる。現在、各国が通貨流通量を増やすことによって経済を拡大させているがこれはバブルに過ぎない。エネルギーなどの新しい資源が見出されない限り実体経済は拡大しない。日本の高度経済成長期のように全体の資産が増える状態の時、ゼロ・サムの奪い合いを超えた協調的な繁栄が生まれ得る。企業や国が成長するなら、奪い合うよりも、成長のために協力したほうがそれぞれの取り分が増える。